第七章
第五節 流通での相違点
ここで薬の流通面からの相違を取り上げてみよう。
(一)規模の適正化と流通の簡素化
わが国とヨーロッパの大きな相違点として、第一に挙げられるのは、消費者の接点(薬局など)の数である。ヨーロッパでは薬の末端といえば薬局だけである。中小病院すら独自に薬を持たず、地域薬局から供給を受けているところが珍しくない。わが国では、いろいろ様々で零細化している。薬局が三万五千ほどある。他に医薬品の販売業者と呼ばれる医薬品の販売者が六万七千ほどある。それだけではなく、病院や医院でも薬を持ち、直接消費者に供給しており、その数は十三万四千もある。合計してなんと総計二十三万もの供給点があり(昭和六十年)、これは人口五二〇人当りに一施設がある勘定になる。
ところが、先に例をあげたデンマークでは、薬の国民との供給接点は、三百五十にも満たない(薬局=三百十三、薬を持つ病院=十五、人口=約五一二万)。わが国の人口を二十倍として比較すると、七千にしかならない。人口比では、わが国に薬の供給点が七千あれば良いことになる。約三十分の一ですんでしまう。言い替えれば、わが国の供給接点はデンマークに比べて、三十分の一に零細化している。
わが国の国民にとって、これだけの数の供給点があるという利点は、たいへん便宜が良いことである。供給点が少なければ不便である。薬が欲しいときに、かなり遠くの薬局に足を運ばなければならない。しかし反面、零細に過ぎるからコミュニティ(地域社会)に必要な薬をすべて備蓄するわけにはいかない。調剤や試験検査に必要な器具備品を用意することもできない。大切な休日や夜間の供給もできない。そして効率が悪くなるため、薬が高いことになる。
わが国の現状は、ただ便利だということで、効率的、経済的な薬剤供給が行なわれる基盤はない。質的にも向上する余地があるとは考えられない。
一方で、わが国の卸売業者(卸売一般業)は、配送のデポを含めて九千六百余りの施設を持っている。人口割ではデンマークの薬局(消費者への医薬品供給の点)は、わが国の医薬品卸売業者の施設よりも少ないことになる。言いかえれば、デンマークの薬局は、わが国の卸業者と同格・同等である。それだけの数で医薬品が上手に供給できるなら、わが国の医薬品流通は、余分な一段階を持っている。消費者は二〇万余りの、余計な流通点を持ち、それに要する本来は不用な費用を支払わされていることになる。
米の零細化した生産による非能率と同じに、これだけ零細化し、非能率なわが国の薬の供給末端を、そのままに放置していては、薬は安くなるはずがない。
(二)他業種との競争 −−自動販売機と通信販売−−
これだけ構造的に零細化して、その零細化の弊害として価格を硬直化させているわが国でも、なお他業種の参入が問題になる。
一九五〇〜六〇年代には、既包装製剤が急速に増加して、セルフサービスによる販売が問題になった。また、通信販売方式や、自動販売機による医薬品の販売が望ましいという意見もかなり強かった。製薬会社が責任を持って製造した薬は品質が確保されるようになってきたので、中間の流通を省略して、速く安く消費者に供給しようという動きも顕著であった。ヨーロッパで、他業種の参入はおろか、自分達の薬局の規模の零細化を防止しようと躍起になっていた頃の話である。
幸いなことに、この動きはサリドマイドやアンプル風邪薬による死亡事故が発生して、薬の供給は品質の確保や安全、副作用の問題が難しい(その頃の風邪薬にはアミノピリンなどが含有されていたが、現在はすでに他の薬と代替されているし、絶対に安全とされたアスピリンさえ、今では小児に使用する場合に相当な注意を要するとされている)実例が生まれて沙汰やみとなったことがある。
薬の管理や販売方法も、時代によって様々な発想がされる。やはり薬の収益性に目をつける人の多いことから起きる現象として理解することが必要である。薬剤師が効率的な薬の取扱いを行なって、消費者に安く薬を供給して、この、他の人々の参入を排除しているのが、ヨーロッパ薬剤師達であることを忘れてはなるまい。
(三)薬価基準の特異性 −−品目表と価格表との混同など−−
前に指摘したように、わが国では、製剤は薬局ではなく、製薬会社が製造するものと頭から思い込まれている。このために、健康保険では、かなり特異な薬価の決め方がなされている。わが国の薬価基準は変わった特徴を持ち、それが調剤料にも影響するし、薬剤師体質にも影響しているので、ここで採りあげてみよう。
一、わが国では、原料薬品表と製剤表が区別されていない。材料(調製する原料)と製品(製剤)が区別されないで、一緒くたになっている。
西ドイツの場合(一九八五年)は、原料薬品表として、アセトンからウンデシレン酸亜鉛まで、一千二百種ほどの原料(調剤・製剤用)薬品が収載されている。この表は、調剤や製剤をする際に用いる薬の量に合わせて、原料薬品の費用を計算できるようになっている(第六章第一節(三)参照)。したがって、薬局製剤などの価格は、その薬局で決まることになる。
それとは別に、既製剤製品表(ローテ・リステ)があり、すでに述べたN1からN3までの標準包装品を中心に製薬会社の造る製剤の消費者価格表となっている。
二、仕事に取組む姿勢を損なっている。
わが国では、前項の区別がないために、ウイキョウ油とアルコールが収載されているにもかかわらず、薬局でウイキョウ精を製剤して使ってはいけないとか、オレンジ油が収載されながら、オレンジ水が処方できないとか、使えないとかの問題が起きている。
薬剤師として、医師の書いた処方せんが調剤不能というのは、まことに不面目、恥ずかしい話である。工夫をし、頭を働かせて、どうにか調剤して、医師の治療意図を満足させ、患者の一刻も早い治癒を望む姿勢が基本である。これが、患者に奉仕する薬剤師の本来的な職業体質である。
しかし、今の健康保険調剤では、薬価基準に収載されていなければ、その処方せんを断わるのが正しい。これは、全く事務的で、薬剤師体質を損なうものである。事実、若い薬剤師諸君の中には、こうした事務的な態度に疑いを持たない人々もある。
三、薬局製剤の価格が決められていない。
薬局製剤の価格は、ヨーロッパでは製剤の基準として、重要な意味を持っていた。今でも、常法によったウイキョウ精五〇〇ミリリットルとか、プレドニゾロン〇・二五ミリグラム錠一〇〇錠といった、およそ製剤可能の薬は、薬局での製剤薬価を決めることができる。この場合、薬局によって、製剤の価格が違ってくる。同じ薬を一グラム使う場合と、一〇〇グラム使う場合に単位当りの薬品価が違っている。だから、同じ軟膏を五キログラム製剤するときと、五〇〇グラムしか作らないときと、単価が違うことになる。大量に作るときは単価が安くなる、常識的な決め方である。
したがって、わが国のように一グラムでも一〇〇グラムでも値段が同じということにはならない。つまり、A薬局では、十五日間の使用量として五キログラムを製剤するが、B薬局では五〇〇グラムしか使わないとすると、当然B薬局の方が高くなる。しかし、製剤する量さえ同じなら、全国同一の価格である。
わが国では、製剤については製薬会社優先であるから、製薬会社が製剤として発売し、薬価基準に収載されなければ価格がつかない。価格がなければ使えないので、地域特性のある製剤、製薬会社よりも安価に調製できる製剤などが、薬局で用意できない。つまり、ここでも、薬剤師の技術を十分に生かすことができない。
四、一錠一グラム単価しか決まっていない。
ヨーロッパでは、製剤の消費者価格も、包装の小さくなるにしたがって、単位(一錠など)当りの価格が高くなる、例えば西ドイツでN1、N2、N3の標準包装はそれぞれに錠剤の単価が違う(第六章第三節(三)B参照)。わが国では薬価基準を一錠一グラム当りで決めているので、簡明ではあるが、世間の常識とは一致しない。
わが国の薬価基準には、まだいろいろと特徴がある。その特徴が、優れたものならば何もいうことはない。しかし、ここにあげたことは欠点のように思える。薬価基準の制度としての見直しも現在の時点では重要ではあるまいか。どう見ても、わが国の薬価基準は価格表もしくは品目表として素質がよいとは思えない。
(四)薬価基準への寄りかかり −−多寡をくくられた薬価基準−−
わが国では、薬剤師(医療で医薬品を購入する人々を含んで)は薬価差益(薬価基準と実勢価格の差額)には関心があるが、医薬品市場には興味を示さない。行政も薬価基準(価格表)に焦点を集中して、それを金科玉条として、引き下げることに努力を重ねているように見える。なぜ医薬品市場に関心を示さないのだろう。ヨーロッパでは、すでに述べたように、自由主義経済の下での、実勢価格の方に関心が集まっている。むしろそちらの方が本筋だという認識である。
この十五年、製薬会社や卸業者の目は薬価基準に集中しているようだ。医療機関は実勢価格と薬価基準価格の差額が収入になるので、それを考慮すれば、医業経営上有利になる。売り手の製薬会社も薬価基準の価格を維持して、できるだけ実勢価格との差を確保しなければ薬は売れない。営業の至上命令が薬価格差の確保になってしまう。したがって、いくら薬価基準価格が高くとも、それは保険の財政のことで、自分のことではないのである。
これでは、正常な市場原理が働かなくなることになる。正常な市場とは言い難い。したがって、販売する側は薬価基準のあら捜しや、抜け道探しに熱中する。需要者側は薬価基準と実勢価格の差の大きい薬品探しに夢中になる。極端にいえば、製薬会社も需要者も、そして行政もまた、薬価基準に寄りかかって、つつき回している印象である。
(五)競争の誘起と市場の生成 −−井戸端会議の社会−−
ヨーロッパで気がつくのは、噂話とか井戸端会議的な話が、しばしば聞けることである。この、井戸端会議を通じて薬剤師達は、他の国の医薬品の流通や価格などの情報交換をしている。
医薬品が特殊な商品であるとはいえ、商品であることから、流通する市場が形成される。この市場を、適切に育成することは、その社会の関心事であり、薬剤師の役割である。健康保険のような巨大な、強力な需要者が出現した医薬品市場は、その動向によって左右されやすい。その影響をうまく利用した流通市場の形成が望まれるのである。
製薬業者や卸売業者などは、わが国の医薬品市場はむしろ過当競争の状態であるという。たしかに、一部では役務や便宜の提供などが盛んに行なわれて、卸などがたいへんな努力をしているように見える。しかし、全部が過当競争かというとそうでもない。全体的にみて正常な市場が形成されていないことは、例えば、取引量の多寡や支払い条件で卸値が決められないことからも理解できよう。病院や開業医など業態((六)市場のセグメント化参照)で卸価格が決まるようだ。取引量が多く、信用のある支払い期限の短い病院よりも、開業医の仕入れの方が安いということが不思議なく通っている。こんな事からしても、先に指摘したように、零細で流通の段階の多い、わが国の医薬品市場は、正常に機能しているとはいえまい。
もともと、健康保険で使用される薬は、正常な競争の行なわれている市場から、わが国の場合は病院、医院が主体となっているが、薬局の仕入れる価格(購入価格)を指標として、それが基準となるものである。
ところが、健康保険の占める割合が高くなってくると、それの影響が大きくなるため、市場価格が適切に形成されなくなりやすい。わが国でもいったん薬価基準が決まると、実勢価格が下がっても追随しないとか、原料、経費の上昇で値上げしたくともできないということは、よく聞く話である。これを防止するために、各国では様々な方策を取り入れて正常な価格競争を誘発させるよう努力しているようである。
例えば、
- 医薬品の指示、使用に関する権限を分散調節する
- 医薬品原料・製剤の輸入を容易にする
- 商標品(製薬会社の製品)とジェネリック(薬局製剤)を競争状態におく
- 隣国、他国の価格を参照する
など第六章、第七章にあげた通りで、薬剤師にとって、医薬品市場に適切なルール作りをして、正常な競争の起きる状態に誘導し、活性化を図ることが大きな役割の一つだといっている。
(六)市場のセグメント化 −−価格競争の結果が消費者に還元されない−−
ヨーロッパの薬剤師達の井戸端会議やECの医薬品の製造承認申請の統一化は、品揃えの充実の意味もあるが、いうなれば、市場の開放、拡大である。市場を国別にセグメント(区分・分割)しないで、共通の市場を造ろうという試みと思われる。
わが国の場合、薬価基準という、価格表に関心が集中してしまったので、基本的な市場の育成が忘れられているようである。中でも特長的なのは、このヨーロッパの動きに裏腹に、市場のセグメント化への動きであろう。
医療用薬と一般薬(風邪薬のように、既包装の薬局店頭で販売する薬)ではかなり以前から市場が分かれていた。それだけでなく、医療用薬でも需要先によって市場を分け、競争を回避する方策が一般化しつつある。その区分された、主な市場とそれらの特徴は、
一、 開業医市場 −−最も値引きと便宜の提供の要請が強い−−
十二万以上の施設があり、数として最も多い。一取引当りの規模は小さいが、同一成分の薬品間と、同効薬品の間でブランド品とジェネリック(ぞろぞろ品)の競争が行なわれる。薬価基準と実勢価格の差に最も敏感で、差額の如何で同効の他品目に移行しやすく、卸業者が力を入れている市場。役務の提供、間接的な値引き、などなど販売に大きな努力が払われている。
二、 病院市場 −−供給量は多いが、さほど値引きの圧力がない−−
主としてブランド品の市場、一取引の規模は大きいが、品目の選定には施設毎の薬事委員会などがあり、他品目への切り替えがそこでなされるため、価格競争はあまり激しくない。しかし、後に述べるように新しい医薬品の製造承認など、別の次元での圧力がかかるため、むしろ、その病院で使用される商標医薬品の商標選定について、製薬会社の努力がなされる市場である。
三、 調剤薬局市場 −−新規の算入が多くて市場価格に疎い−−
処方発行の歴史が短いので、使用医薬品の品目の選定は、もっぱら処方する医師によっているため、薬局自身には品目選定権がないことが多い。このため、価格競争が最も起きにくい市場である。
そもそも、薬価基準価格はその薬の卸価格を調べて、九〇パーセントの量の買えるバルクライン価格によって決められることになっている。これは健康保険に使われる薬の市場は全国的であり、かつ統一的な医薬品市場が存在することが前提になっている。ところが、現在の医薬品市場は次第に分割化(セグメンテーション)され始めているとすれば、薬価基準算定の基本が揺らぐことになる。
こうした分割化によって、区分された市場間の情報・連携の不十分さを利用して、一〇パーセント余りのシェアの価格維持を図れば、薬価基準の価格を維持できるなどの小細工が可能となっている。個々の取引先に、別々の価格を提示することで、薬価基準の価格決定方法の裏をかくことが容易になりつつある。卸業者は購入する薬局、医療機関に同じ薬、同じ品目について、それぞれに卸売価格を設定し、価格を提示する習慣が定着し始めている。
つまり、医薬品の価格競争は、同一成分・同一組成の間で最も顕著に起こるので、同成分薬への移行が起こりやすい市場ほど、激しい競争が生まれる。開業医市場での激しい競争を、他へ伝播させない事が区分化の原因であったようだ。
全ての需要者に対して共通の建値を示し、量による割引制、支払い条件による付加金などを加味した公平な価格によって取り引きされるのが公正な、むしろ当り前のやり方であろう。
現在、厚生省は薬価基準の改訂に際しては、広範囲な薬価調査を行なっているし、その引き下げに相当な努力を払っている。しかし、市場の形態が変化して、同一の薬剤が複数の価格設定のもとに販売されるとするならば、単一の市場とはいえず、バルクライン価格設定の本来の意味は失われることになろう。
こうして、昭和三十年代までに行なわれていた製剤品目の建値制は、薬価基準に焦点に絞られるようになって、崩壊してしまったのである。製薬会社や卸売業者は、自分の販売する医薬品の建値を公表できない状態になっている。建値制をとるバルクライン制による薬価基準価格は次第に低下して、薬価差益が失われてしまうのである。これは、需要者の購買意欲をそぐため、建値制を捨てて対応したのが今の形といえよう。建値が公表されないため、需要者側は卸業者の提示価格を信用せず、値引き圧力を加えたり、他の同効薬品への移行を示唆したりする。ここで、卸問屋と需要者側の相互不信がおきたり、つまらぬ労力が払われることになる。
保険者は薬代として、大部分の需要者の安い仕入れ価格よりもかなり高い金額を支払わねばならないことになる。これが、薬価差益であり、通常は医療機関の懐に入ってしまい、競争の結果が消費者に還元されないのが問題なのである。
わが国の場合、本来は競争市場で練られた価格によって作られた結果である薬価基準に焦点を合わせて、ただ安く薬を買いたいとしたために、さまざまな抜け道が生まれている。そして、次第に公平でなくなったり、市場の硬直化が起きてしまう。こうしたことは、ずっと昔に多くの国で経験済みのことのようで、結果に目を注ぎすぎることの欠点として注意しなければならない教訓であるし、そんな教訓がありながら、現在のわが国で、正常な競争市場を育成するという原則が放置されて、小細工競争が起きていること自体が不思議である。
(七)医薬品の開発と輸入、そしてジェネリック
一九八七年の国際薬剤師会議では、医薬品の開発のシンポジウムが開かれていた。現在、自由主義国では、医薬品開発の責任は、主として医薬品製造会社に任されている。医薬品を開発することはリスキー(賭博性の高く危険)な仕事とされている。特に最近は、長い期間の臨床試験を行なっているうちに、悪い評価が出てそれまでの費用がすべて無駄になることも珍しくない。すべての試験に合格して、いざ薬を市販し始めても、あまり使われなかったり、競争品が出現したりで、元の取れないこともあろう。
こうしたことから、医薬品開発には国民的な理解が必要になる。しかし、だからといって開発する製薬会社を大切にしすぎると、図に乗ってもうけすぎて、薬全体が高くなってしまうこともある。これでは、その社会が損をする結果となる。
だから、国によっては開発をほとんど諦めて、すべてを輸入やジェネリック医薬品に頼ろうとしている国もないわけではない。しかし、良い薬を開発することは、国レベルの問題ではなく、人類社会全体の課題である。やはり国力にふさわしい、開発を受け持つのが本当であろう。
こうした観点で、自分の国で開発する薬を使うか、外国で開発された薬を使うのか、コンセンサスを求めているのがヨーロッパ各国なのであろう。薬剤師の国際会議では、その辺をどう考えたら良いか、意見を闘わせたのである。それぞれの国で、どんな理屈を採ったら良いのか模索しているのである。
ヨーロッパのジェネリック薬局製剤も多い。わが国のジェネリック製剤は薬局が未発達であったので、非開発製薬会社、いわゆるゾロゾロ品メーカーと呼ばれる製薬会社が多数存在して、ジェネリック医薬品を供給している。わが国でも、いつジェネリックが使われ、どのようにブランド品が利用されるかについての、コンセンサスが生まれることが望まれる。
(八)新しい問題 −−承認制度の後始末−−
現在、わが国の医薬品の品質は世界的に遜色のない、きわめて水準の高い製品が生産されている。これは、昭和四十二年の「製造承認の基本方針」の設定から、およそ十年をかけた行政(厚生省)と製薬業界の努力の結晶ともいえるものである。それ以前の医薬品を考えると、大変な変わりようである。こうした変革を経験して、わが国の薬の品質が向上しただけでなく、製薬会社の体質が、営業本位から科学技術尊重への移行を強要されたことも、大きく評価しなければなるまい。
しかし、良いことばかりではない。ヨーロッパでも、これに伴った問題点がいくつか新たに生まれているという。例えば、さきに触れた、市場統合の動きと関連している小国の医薬品の品揃えである。また、製造承認を得ようとする物質は、大病院などでの、広範かつ長期の臨床試験が義務づけられている。この臨床試験を販売とリンクしようとする営業方法などが流行しはじめているともいう。つまり、その病院での使用を条件に臨床試験の研究費を名目として、合法的に多額の支払いをするというのである。臨床試験は格好の名目だという。
一般的にこうした弊害は、権力の集中によって起こりやすいものである。したがって、薬の性質を熟知している社会では、努めて権力の分散を図っている。例えば、商標名による処方は道徳的でないとしたり、その病院の商標名での医薬品の購入には、処方医と全く違う人々による別組織を用意して、そこで学問的な(バイオアベイラビリティーなどによる)判断を求めるなどが行なわれているようである。