第七章
第四節 医療の変化への追随 −−疾病構造の変化−−
わが国では、六十五歳以上の人口が一一パーセントを超えて、急速に増加しつつある。二十一世紀の初頭には一六パーセントを超え、ついには二三パーセントにも達するという。この高齢者の多くは、継続的な薬物治療を受けながら、社会生活ができる人々である。言い替えれば、わが国に、継続的な薬物治療がなければ、生活できない人々が急増することである。したがって、継続した(薬物)治療を経済的に、行う体制が作られないと、若人、壮年層はそれらの負担に耐えられないと心配されている。
(一)年金と同じ危機
わが国では年金制度の危機が目前に迫ったといわれている。高齢社会に変貌した、年金制度の手直しが進んでいる。こうした、老人の医療が大きな問題とされて来ているにもかかわらず、わが国では、その薬物治療に使う薬の供給については、本質的な問題に手がついていない。
急性疾病と、現在問題になっている慢性疾病も、どちらも薬が使われる。供給方法として同じことではないか、違うはずはないと多寡をくくられている。第六章で示したように、ヨーロッパでは、まるっきりやり方を変えたほど、急性疾病には急性なりの、慢性病には、それなりの薬の供給方法があるとして真剣な対応をした。同じ電車でも、市街電車も新幹線の電車もある。目的によって使い分けることになる。その結果が、第一章に示したように、高齢社会の先進国で、国民一人当りの薬剤費負担の低さに現れている。わが国では、その区別が大切なこと、うまくいかないことに気がついていない。薬剤供給の根幹に関わる問題との認識が欠けていると思われる。
指摘したように、高齢社会とは、いうなれば慢性病社会である。その治療に、薬物治療が欠くことのできないものとするならば、高齢社会向けの薬剤サービス制度への手直しを進めることが必須であることに議論の余地はないはずである。
わが国では、薬の無駄使いをやめようとか、薬の多用を防止しようと、真剣な対応が進められている。しかし、残念ながら的はずれの点が多いようだ。わが国の健康保険診療での薬の制限の話をすると、ヨーロッパや米国の医師や薬剤師は、初めは不思議そうな顔をするが、遂には、ばかばかしいと笑い出すことがある。彼らには、本当のことと思えないと驚くほどに的外れなことが、わが国では真剣に行なわれているというのは、残念である。世界に通用しない、常識はずれがいくつかあるのである。恥ずかしい思いをしたいくつかを挙げてみよう。
(二)慢性疾病への移行と対応の未熟さ
ヨーロッパでの薬物治療の高齢社会への対応の進んでいることはすでに述べたが、わが国の場合は、無駄使いを防ごう、節約しようという努力がもう三十年も続いているにもかかわらず、診療の方法の慢性型への移行がかなり遅れている印象である。
一、 通院間隔の適正化
わが国では、保険診療では投与する薬の日数は最大十四日(慢性病の一部で三十日、薬の量ではなく、日数で制限している)とし、この制限は厳しく守られている。薬の無駄使いを防ぐためにも、これは、保険医療では、当り前の事とされている。この、当り前の事をヨーロッパで説明するのにかなり苦労する。患者の通院間隔は、医師の判断による事柄で、制度で決めることではない、よく日本の医師はその制度に忠実に診療していますね、と彼らは驚く。診療間隔は医師の診療責任の一部というのが常識のようである。
わが国でも、真剣に高齢社会にふさわしい、あるべき慢性病の治療を追求しようとしている専門医は、現在の診療報酬の体系では、通院間隔を短くとれば、医師の再診料などの収入は大きくなり、経済的には有利であろうが、それは医学的に見て合理的な治療とはいえない。むしろ、慢性病の医療の本質からすれば、症状の安定した患者については、通院間隔は二ヵ月あるいは三カ月として、その代わり、三分診療と悪口を言われない、慎重な診断治療を心がけたいという医師が多い。同じ処方せんをくり返し書くよりも医師はもっと診断に時間を割くのが本当だ、さらには慢性病の医療費の節約にもなろうと、真面目に考えているのである。
しかし、薬のムダ使いを助長するとして、この議論はタブーである。慢性病の患者の通院の煩雑さを考えても合理的な解決が望まれよう。
二、処方と投薬の混同
通院間隔が三ヵ月の場合に、患者は山ほど薬をもらうことになって、危険ではないかという心配がある。この点が投薬と、処方せんの基本ともいえる違いである。処方せんには、分割投与というやり方がある。一枚の処方せんが三月分でも、薬局には処方せんの保存義務があり、切りの良い十五日でも、一ヵ月でも区切って薬をもらうことができるのが処方せんの特長である。医師はその判断を、処方せんに記載することになる。
糖尿病、心臓病、高血圧症の高齢者が、住居に近い薬局に処方せんを預けるのが、むしろ当り前で、その点こそ、社会生活、家庭生活のできる慢性病患者の薬物治療の担当者としての地域薬局の特長がある。それを、考えに入れているから、ヨーロッパの医師は適切な通院間隔を設定できるのである。
この機能を認識しないで、わが国の処方せんは投薬と混同され、制度として不完全な形で使われている。制度を利用すると、どれだけ患者に便宜であるか、医療費が節約できるのかのイメージが持てないようだ。
三、効能効果による制限
ヨーロッパの医師と薬剤師の驚くことに、医薬品情報の使い方がある。わが国の保険医療では、製薬会社の申請した効能効果以外は認められていない点である。薬の効能効果については、製薬会社が製造の承認申請をする際に、厳しい治験がなされ、データが蓄積される。しかし、多くの国の医師、薬剤師プロフェッションは、それをデータとして尊重はするが、あくまでも営利情報として区別している。自分達の医薬品の評価基準はプロフェッションの評価として、自分達で作り上げている。米国でもAME(米国医師会医薬品評価集)やUSP?DI(米国薬局方医薬品情報)として出版している。ヨーロッパでも、その国の保健プロフェッションは非営利情報として、医薬品評価集を作り上げる努力をしている。
わが国の場合には、厚生省の薬務局は市販される医薬品の評価として、製薬会社の申請するデータを扱うことになろうが、プロフェッションの立場、もしくは健康保険の立場では、営利情報をそのまま使うわけにはいかない立場にある。この辺の基本姿勢について、ヨーロッパのプロフェッションへの説明が難しい。
四、処方せんの内容制度
わが国では、薬剤師法の規定以上に、保険処方せんの規制が厳しい。処方せんに、薬価基準に収載されている以外の医薬品の記載を禁止したり、最近では慢性病の長期処方せんでの適応医薬品や常用量にまで制限を加えている。
健康保険の財政難から、保険の給付に制限を加えることはどこの国でも実施され、医師も薬剤師も協力している。しかし、わが国の場合の方策は、医師法や薬剤師法と整合しない面が多い。この点についてもヨーロッパの諸国では、かなり違った方策を取っている。
医師、薬剤師は、まずプロフェッションとしての法(わが国の薬剤師法)に忠実にであることが要求される。医師は良心に忠実に処方し、薬剤師もまた、その処方に忠実であることが基本である。そして、保険はお金の支払い方であると割り切られているようだ。
例えば、処方せんの中の医薬品が保険適応外(薬価基準未収載)の場合、わが国ではその保険処方せんを受け付けるわけにはいかない。これは、専門職業法の調剤応需の義務との関係を複雑にしている。ヨーロッパの場合、保険は支払いの問題で、その処方の費用は自分で支払うとか、一部負担の負担率が違うだけと割り切り、専門職業義務の責任を優先して、混乱しないように配慮している。
こうした割り切ったやり方は、医療サービスと薬剤サービスの分離している分業先進国では当り前の事のようである。保険の差額徴収を認められていない現在のわが国では仕方がないと諦めている薬剤師も多い。処方せんが多く使われるようになって、処方せんの取扱いが投薬とますます混同される傾向にある現在、基本問題として掘り下げを要する点であろう。
五、薬物治療の効率化への真剣な取り組み
わが国では、いまだに調剤薬を薬袋に入れる習慣が続いている。これは改めて指摘されないと、惰性的に誰もが不思議に感じないことである。わが国の多くの薬剤師は、薬袋に入れる薬が医療用であり、販売と違った専門職業的な仕事で、プロフェッション・フィーを得られる仕事と思い込んでいる。改めて考えれば、これは何も本質的な相違ではないと理解できよう。医療に使われようが販売であろうが、薬剤師にとって消費者の安全を守るという本質には何の違いもない。国民への薬の供給全部に、慎重に立ち向かわねばならないのは、薬剤師の本来的な役割のはずである。
ヨーロッパの薬剤師に、この製剤を薬袋に入れる作業が、どれだけ重要で、本質的なものか質問されて、説明する際にいつも苦労する。
六、物件費を重視して、人件費を節約しない習慣
薬の無駄使いには厳しいが、人の無駄に関しては、むしろそれを当たり前とする、親方日の丸的な考え方は困りものである。円高も加わり、世界一人件費が高いといわれるわが国で、無駄といえば、モノ(薬)を意味するだけでは消費者がたまらない。ヨーロッパと比較すると、例えば前項の製剤を薬袋に入れる作業など、本質的な重要さの度合を評価せずに、無駄な仕事にも調剤技術料が決められている。無駄な仕事を切り捨てながら、学問、技術の進歩に追随する費用を積極的に取り入れるという考え方が、なぜか、わが国の薬剤師の心の中に生まれていない。
七、固定観念にとらわれすぎる
実態がなくとも建前で料金が決まりそれが尊重されるところがみられる。例えば、錠剤の調剤料である。既製製剤の処理に要する費用と、散剤、水剤の調製に要する日数倍数の費用が同じであるはずがない((四)製剤料の勘違い参照)。もう、何年も不合理だと指摘されながら、硬直して変えられないのはなぜだろう。
八、実勢価格の軽視
薬価基準が医療機関の購入価格であるとの建前から、実勢価格は余分なもの、じゃま者のように感じている向きも多い。しかし、ヨーロッパでは市場競争の結果が、実勢価格に現れていると、むしろ実勢価格を尊重している印象である。確かに薬価基準価格は結果にすぎない。
九、適切な包装
商業政策的に華麗な色調を作ったり、わが国の湿潤な気候に適合する努力はされているが、慢性疾病を考慮しているとはいえない。現在、相当広い範囲の品目の薬は、慢性病のみに使われるのであるから、調剤の手数を減らす配慮をした包装がないのはどうしてだろう。技術面よりも営業政策が優先しているのだろうか。
十、事務費の無駄使い
現在の健康保険の調剤報酬請求明細書を煩雑だと思わない薬剤師があるだろうか。誰もがどうしてこんな面倒なものをと考えながらも、毎月毎月のことなので次第に習慣となってしまい、仕方がないと諦めているのではあるまいか。
そして、少しでも労力を省きたいと機械化したり、専門の事務員を雇ったりしている。全国の薬局で支払っている、こうした費用はおよそ膨大なものになっているに違いない。消費者から集めたせっかくの保険料、もしくは税金が直接医療に使われないで、事務費とされるのは誠にもったいない。
事務費だけでなく、われわれの仕事には、随所に発想の硬直化がみられる。それが積もりつもって非能率化につながっている。長期間の薬物治療の費用としてみると、大変な違いになっていることを第六章に示した。わが国の、これまでの医療費の節約とは、薬の無駄使いをやめよう、という発想だけで、それ以外にどんな発想があったのだろう。どうして、積極的に慢性病の薬物治療を掘り下げる発想が実務者から出てこないのだろうか、不思議である。
例えば、慢性病の薬物治療の請求書を一ヶ月に細分する事は無理である。三ヵ月の一覧をつけることにより、支払いをする方(支払基金)も事務が能率的になるのではあるまいか。
ヨーロッパの薬剤師は保守的に過ぎるといわれながらも、実はどんどん新しい事態に対応している。自分達の職業の特長を磨き上げて、他の職業人に真似のできない消費者への奉仕について宣伝し、広く理解してもらうのはその職業人の責任だと、ヨーロッパの薬剤師達は考えているようである。
わが国では、薬剤師側の努力不足もさることながら、外部の無理解もあったろう。今後も、薬を節約しようとか、安く買いたい(例えば薬価基準を引き下げる)だけでは、決して患者(国民)の支払う治療費(薬代)は安くならない。その取り組みについて、薬剤師は積極的に発言する責任を持っているはずである。
(三)制限による危険を招いている一例 −−倍量処方の悪癖−−
前項で慢性病への対応の未熟さを指摘したが、ここで、大変に危険な一例をあげてみよう。わが国の場合、薬の制限があるので、慢性患者は薬(処方せん)をもらうためだけに、通院しなければならないことがある。患者は、今日は薬だけという再診を受けに、医師のもとに通わなければならない。わが国の保険診療が、次の検査までの薬を与えられないという制限をしていることから、制度の抜け道探しが 流行している。一日量として、患者の服用する二倍、三倍の量の投薬(処方せんの発行)を行なって、患者の通院間隔を調節するという方法である。
つまり、用法紙(薬袋)には、一日二回一錠ずつと書かれているのに、患者には医師から直接に、一日一回一錠ずつ服用する指示(用法紙に書かれている半分)がされていることがある。こうした方法をとると、定められた最大一ヵ月の患者の通院間隔を、二ヵ月間、三ヵ月間、あるいはそれ以上にとることができる。
これは倍量処方と呼ばれ、たいへん危険な薬物治療である。用法紙の指示通りに薬をのんだら、事故になるに違いないものである。特に老人は薬の過量に弱いことに注意しなければならない。安全を犠牲にした抜け道である。
家族が用法紙の指示を読むと、患者さんののんでいる二倍量が書かれている。患者の記憶違いであろうと、用法紙の指示通りに服用させたところ、様子がおかしくなったという事故が起きている。倍量の処方せんが書かれ、患者に十分言い含めてあったが、家族が用法通りに服用させたら事故が起きたのである。
薬が処方せん通りに調剤され、その用法紙の指示通りに服用したら問題が起きるのでは、一体、何のために薬剤師が存在しているのであろうか。薬剤師が懇切に服薬指導をすればするほど、危険となるのでは救いがない。患者が指導を忠実に守って事故が起きるのでは、まさに薬剤師は踏み付けである。たいへん危険な方法であるが、現在の医療保険の投薬の制限を逃れるために流行している方法である。速やかに、対策の必要な問題である。
さて、わが国ではこうした場合に、すべてをそんなことをする医師が悪いと、医師の責任にしてしまい、取締りの方向をとることが多い。これは見当外れである。薬の性質を理解した国では、薬の誘惑のない状態を作り上げるのである。もちろん、医師の良識も要求されるが、これまでくどいように述べた、薬の悪い性質を押え込む のが知恵である。医師が誘惑を感じない方策を用意することが本質である。
ヨーロッパに比較して、確かに、慢性疾病の薬物治療費が高すぎる(次項参照)ことから、保険者が薬剤費に神経質になることは理解できるが、今のやり方では、迷惑するのは患者であることを忘れてはなるまい。
三ヵ月分の投薬を許したら、薬の無駄使いになると即断してしまうのも問題である。たしかに、病院や医院での投薬で、それだけの薬を一度に患者に与えたら、無駄ばかりでなく、危険でもあろう。そこに処方制度の利点が潜んでいると前項で指摘した。三ヵ月有効な処方せんでも、一回の投与量を十四日とすることができるのが処方せんである。患者は二週間毎に、その処方せんで薬局から薬をもらうのである。薬局の薬剤師は患者が医師の指示に従っているか、病状に変化がないかを確かめて、薬物治療を継続していくのである。薬局の薬歴管理を基礎にすれば、この方法を取ることは可能である。
こうした方法がどれだけ慢性疾病の薬物治療をうまく進める力となるか、わが国では驚くべきことに知る人は少ない。医薬分業を主張する薬剤師すら知らないことが多い。わが国の保険診療がいかに慢性病に対応していないか、薬剤師が機能していないか、時代錯誤の方式をとっている見本のような点で、先進国の医師や薬剤師に質問されて返事に困る典型的な一例である。
(四)製剤料の勘違い −−調剤料の二重取り−−
さきにあげた製剤の価格の不合理さをもう少し掘り下げてみよう。わが国で製剤の意味合いを正確に理解せず、価格の高い製剤を排除しようとしたために起きたことに思える。ここで、わが国の製剤利用の歴史を振り返ってみよう。
昭和三十年代までは薬物治療は、散剤や水剤の形が普通であった。一日分七円と言うその頃の、安い人件費を背景とした調剤料の設定があったので、製剤の利用は贅沢とか、無駄使い位に見られていたようである。健康保険医療では、その頃、多用されていたスルファミン類の製剤(錠剤)を薬価基準からすべて削除したこともある。散剤に比較して値段の高い製剤の使用を避けたのであろう。
当時、製剤は主に注射剤が製薬会社から供給されていた。内服用としては、どうしても製剤を必要とする場合以外は、結晶(原料)薬品をその度に調製(調剤)して使ったのである。
この方策が裏目に出たのは、そのすぐ後の昭和四十年代である。わが国の高度成長政策が実を結び始め、人件費は上昇する一方であった。製剤を継子のように扱い、はっきりした役割を与えなかったため、その報いを受けることとなった。受診が急増した病院や医院は、なんらかの対策を必要とした。患者さんが増え続けたため、手間のかかる調合(調剤)を回避しようとして、製剤利用が進んだ事は当然の成りゆきであった。しかし、散剤利用は急速には減少しなかった。この結果、薬剤師の調剤手数料は一日分七〜九円から、五〇円にまで増額されている。
こうして、高所得社会で、建前として手間のかかる調製・調合を残しながら、実態的に製剤利用に移ったため、数多くの歪みが生まれることとなった。ヨーロッパで、慢性病の薬物治療に適合する剤型として、錠剤などを組織的に使ったのと大きな違いである。早くから慢性病の薬物治療を既製製剤を中心に行なうこととしたのは、賢明な選択であった。オランダでは一九六〇年代まで、散剤使用がかなり残っていたが、現在は他の諸国と同調している。
この、しぶしぶ製剤利用に移行した後遺症が、調剤料の二重取りとしていまだに残っている。ヨーロッパのように製剤価格を新設せず、原料薬価表(薬価基準)に製剤品目を加えたため、建前として手数料なしで薬を患者に渡すわけにもいかなかったのであろう、調剤料を加えざるを得なかったのである。
ヨーロッパの場合、製薬会社の製剤価格の中に薬局の調剤料が含まれると考えられている。したがって、製薬会社の製剤料は調剤料の変形で別物ではないとされ、二重取りは許されていない。製薬会社が製剤料をもらったら、薬局はそれに上乗せして製剤料や調剤料を請求するわけにはいかないのである。二重取りは国民に対して不誠実であるということになっている。したがって、原料表の薬には製剤・調剤料を加算するが、製剤価格表には加算しない原則がある。
現在では多少変化しているだろうが、製薬会社の製剤の利用は、製薬会社による大量生産の効果が、価格面で証明された場合のみ、つまり薬局での製剤もしくは調剤の価格よりも安い場合にのみ認めていた国もあった。製薬会社は薬局製剤よりも効率的な製剤をすることによって、消費者価格を下げているという理解である。そして、その薬局製剤との差額の一部を薬局の取り次ぎ手数料としてもらうことを、消費者から認められていると説明している国もあった。
わが国の場合、そんなに厳しいことを消費者が要求しない。だからといって、今のような製剤料と、調剤料の二重取りが許されて良いということでもなかろう。その後、薬局の調剤料が値上げをされることとなって、初めは目立たなかったこの二重取りが顕在化する結果となってしまっている。
(五)調剤手数料の不合理の解消
先にも触れたが、現在の薬局の調剤報酬の体系は、外国人には全く理解できない点があるようだ。ここでは、慢性疾病の長期の薬物治療で、矛盾する点をいくつか指摘しよう。
第一は薬の使い方で、値段が違うことである。米を買うことを考えよう。一袋十キログラムの米が四千円であることは、その食べ方には関係しない。一日で食べてしまっても、ゆっくり十日かけて食べても値段に変わりはない。薬局で買える風邪薬でも同じである。三〇錠包装で五〇〇円の感冒剤は、一日三錠十日分として使っても、一日六錠五日分としてのんでも、五〇〇円という値段に変わりはない。
ところが、調剤薬となると、使い方で値段が違うのである。例えば繁用される降圧剤のトリクロルメチアジド錠の薬価基準価格は、一錠当り一二円七〇銭、三〇錠で三八一円である。その同じ三〇錠の調剤報酬額は、
| 一日三錠、十日分として処方されると | ……… | 一、三七〇円 |
| 一日二錠、十五日分として使うと | ……… | 一、六四五円 |
| 一日一錠、三十日分として使うと | ……… | 二、四七〇円 |
である。
総量(三〇錠)が同じである薬が、使い方によって値段が違うというのは、不合理な料金算定法といわざるを得ない。得に患者さんの不信を買うのは、症状が軽くなって薬が減ると薬の値段が違ってくることである。かえって単価が高くなるという現象を、どう患者に説明したら良いのだろう。薬局で毎日の日常業務で困っている問題である。
この点、どんな使い方であっても薬を物の値段として、一本で決めているヨーロッパの方が患者に説明しやすいし、常識的である。この不合理は、日数による定額制の報酬算定方式をとっている限り改善は無理である。
第二は薬価基準で三八一円の利尿剤が、手数料を加えると二千円以上にもなる事で、調剤料とのバランスに欠ける点である。薬の価格に調剤料を加えられると四倍から七倍となるのはおかしな事ではなかろうか。ちなみに円に換算すると、
デンマークの消費者価格は
| 四ミリグラム一〇〇錠入りで | ……… | 一、九二五円 |
| 二ミリグラム三〇錠当りに換算すると | ……… | 二九〇円 |
西ドイツの消費者価格は
| 四ミリグラム二〇錠入りで | ……… | 六八〇円 |
| 二ミリグラム三〇錠当りに換算すると | ……… | 五一〇円 |
もちろん、わが国の調剤料は定額制をとっているので、高い薬の場合には、調剤料を比較すれば安くなることは事実である。しかし、安いものは安いなりに、高いものはそれなりに消費者に渡るのが本当ではなかろうか。
第三に実質的な収入が様々なことである。前に触れたように、わが国の健康保険の制度の中では、医薬品は購入価格で使用されることが原則(表向き)である。薬価基準とは医療機関の購入価格とされる。しかしながら、製剤が多用されるようになってから、この価格は原則でしかない。薬価基準価格と、実勢価格との間にはかなりの差が生まれるのが実態である。ヨーロッパでは、この実勢価格との差額を、薬局の薬剤師のプロフェッション・フィーとしてしまった結果になっている。仕入れ価格の三〇〜四〇パーセント(程度)がマークアップとして認められ、それを公明に主張してもらっている(さきにあげたデンマーク、西ドイツの薬剤価格は、そのマークアップを含んだ価格である)。
実勢価格が建前価格と食い違っていることを仕方がないと放置するよりは、食い違いの現実を認め、その価格を自由主義経済の下での、合理的な市場価格として算定の基礎としているのである。
別のいい方をすれば、ヨーロッパでは、どんな薬でも製造会社が薬の定価(消費者価格)を勝手な価格でつける(すなわち、薬局の取り分を決める)ことができない。自動的に決ってしまう。つまり、再販売の価格は、卸値によって決ってしまうことになる。三〇パーセントマークアップと決められていれば、七五円の卸値の薬はどんな薬でも一〇〇円で売られる。五〇円の卸値の薬に一〇〇円の定価をつけて売る(一〇〇パーセントのマークアップ)こと、反対にいえば一〇〇円と定価をつけて、五〇円で卸すことができない。
だから、わが国のように、薬局の薬剤師は定価で販売していると言い訳をして一〇〇パーセントものマークアップをすることは許されないし、三割引きと広告して、実はそれでも四〇パーセントのマークアップがあるということもできない。
この辺が、一般の商業的なマークアップ方式をとりながら、プロフェッション・フィーであると主張できる点なのであろう。
薬局の薬剤師の意識としての違いはこれだけではない。わが国では医薬品の販売を全く商業的な行為と考えているために、一個当りの利益を考えて、なるべく高い価格で売るとか、あるいは総体の利益を最大(仕入れと売値の差額(マージン)×個数の値を最大にする)にしようとして安く大量に売る努力がなされる。両極端の薬局経営法が存在する。
マークアップは技術料(プロフェッション・フィー)とは考えられていないから、様々な価格設定があり、それが、わが国独特の薬剤師体質を作っている。
わが国でこのヨーロッパの真似をすることもなかろうが、薬価基準算定にかなりの労力とお金をかけている事を考えれば、発想を変えた方が解決は早いとも考えられる。わが国の健康保険の調剤料の算定方式は急性疾病向けで、その時代には合理的な意味があったが、現在は速やかに慢性疾病に代えられるか、もしくは慢性型料金体系が付け加えられる必要があるということである。