第七章
第三節 薬の政策の樹立
前に触れたように、わが国の場合には、コミュニティを基盤とした薬剤供給(サービス)を制度として取り上げる問題意識に欠けた社会であり、薬剤師がその責任者であるという認識がなかったので、先進国では普通の方法とされる、国民に対して分かりやすい将来像を示して、理解を求めるということに無関心であった。
わが国で、今求められているものは、その欠けているコミュニティを基盤に置いた、基本的な薬に関する政策ではあるまいか。ヨーロッパの場合、薬剤師は薬に関しての責任者であるから、この基本的な事柄を放置しておくわけにはいかない。積極的に薬に関する基本問題、考え方を仲間内で論議して、国民の同意を得る努力を続けている。そして、行政(お役人も薬剤師であることが多いが)と協力して遂次実行して行くことは、本来的な仕事とされている。
この観点からすると、第三章でも例(第五節(五)地域薬剤サービス参照)をあげたが、どんなことが問題になるのか、重要な事なので、ここでもう一度取り上げてみよう。
(一) モノと技術の分離 −−薬の医療からの独立−−
昭和三十三年に健康保険の診療費体系が変えられた。新医療費体系といわれて、現在の甲表乙表の診療費はこの時から始まっている。この、新医療費体系に移行しなければならなかったのは、それまでの、わが国の医療費は現在以上に、薬を中心にして組み立てられていたからである。物と技術の分離が当時のスローガンであったし、今でも同じことが言われている。
それまでは、投薬料・注射料とが、薬を含んだ医師の技術料の中核であり、診察料は微々たる額であった。それではいけないと、基本診療料など、医師の技術料を中心とした支払い方式が取り入れられた。この診療料金表の是非よりも、ここでは「物と技術の分離」に焦点を当てよう。モノとは、写真材料などもあるが、主体は薬を指している。診療費の中で、遅ればせながら薬を分離しようとしたのである。
ところが、残念ながら、この分離は極めて不十分である。この場合は、診療費の中で分離しようとしたのである。薬剤費は医療費には含まれないのが、ヨーロッパでの常識であるが、薬剤費を診療費から独立させて別建てとするところまで完全ではなかった。
一方、わが国の健康保険法の中では診療報酬以外に、調剤報酬が顔を出している。そして、この調剤報酬は、病院や診療所以外での薬剤給付、つまり、薬局による処方せんの調剤を対象とした、薬局向けの、部分的な薬剤給付だと解釈されている。
健康保険法がヨーロッパに範をとったものとすれば、(外来の)診療で用いられる全ての薬剤は、この調剤報酬表で給付され、請求されるのが、本来の趣旨であろう。そして、調剤報酬表ではなくて、薬剤(供給)報酬表といわれるのが本当であろう。調剤報酬表は薬剤供給表の誤訳と考えた方が分かりやすい。これが、モノと技術の分離の本旨でなければならなかろう。
健康保険法制定当時のわが国は、薬と医師の診察とは不可分であったために、薬の費用をすべて診療費から独立させることは極端に過ぎた方策であった。実態とあまりにも違うため、的確なイメージを描くことができなかったのであろうし、薬剤師も、そこまで考え及ばなかったこともあろう。
しかしながら、法の制定時に実態がないにもかかわらず、薬剤が診察と別であるという原則が盛り込まれたことは、立法者の見識であり、画期的なことではあった。
ここでいうモノとは、ただ薬を意味するのであろうが、そのモノの中にはまた、それなりの技術がある。純粋の物を指しているわけではない。したがって、モノとは、薬剤サービス制度を意味していなければおかしかろう。つまり、物と技術の分離とは診察(医療)費と薬剤費の分離であり、医療保険の給付を診療費と薬剤費と別建てにすると考えると分かりやすいし、ヨーロッパでは当り前のこととされる。
現在でも、薬剤費と診療費の分離の不完全さは、診療報酬の改訂の際にハッキリと現われる。「薬価基準を一〇パーセント引き下げると同時に診察費の値上げを行ない、トータルとして診療費は二パーセントの値上げになる」といった新聞記事がそれである。医療費の中に、薬代が入っていて、誰も不思議に思わない。モノ(薬)と技術(診療費)の混同や、バランスをとるのを当り前として受け取っているところはわが国の特異な事情であろう。
この、物と技術の分離について、薬剤師の立場でもう一度、本質を堀り下げて検討することが望まれよう。
(二)地域備蓄医薬品(品揃え) −−医薬品のラインアップ−−
ヨーロッパでは人口の少ない国が多いので、しばしば、その国で生産もしくは輸入されない薬が存在するようだ。利用が少なく採算があわないことなどを理由に、製薬会社が、製造も輸入もしない薬ができてしまうのは、珍しくないようである。一九九二年のECの市場統合で、各国に共通の製造承認を予定しているのは、厳格な承認制度の下での、効率的な方策なのだろう。
その国で用いられる薬の種類・範囲を定めることはきわめて重要事である。いくら病人の数が少ないとは云え、その国で治療に用いられる薬が存在(市販)しないのは、その国の薬剤師の名折れとばかりに、薬剤師(会など)が活躍している。製剤を直接輸入したり、原料を手にいれて薬局製剤として国内に流通させ、国民の需要に応えている。人口の少ない国でも、必要な医薬品の品揃えを、きちっと完備しようと努めている。
わが国は人口も多いので、黙っていても製薬会社は必要な薬は造ってくれるものと考えられ、薬局と薬剤師には、その責任と機能を持たない。もし、困っても困ったというだけで解決策はない。
また、ヨーロッパの薬剤師達は、良い品揃えに積極的に取組んでいる。行政と薬剤師会は製薬会社からの製造承認の申請を、機械的に受け入れることはしないようだ。その国の薬の品揃えに関しては、利用する医師達とも相談して基本方針を定めた上、様々な観点、視点からの配慮の末に決められるようである。ここで、考慮される事柄をいくつか挙げてみよう。
一、類似商標の排除
商標の決定は製薬会社の権利である。しかし、商標が互いに似ていると誤薬が起こりやすい。誤薬(処方や薬のラベルを読み違える)は患者の安全を損ない、薬剤師の責任ともなるから、適切な商標、表示方法について、製薬会社との協議を行なう。
二、製剤の含量、形態の協議
- 同一成分の製剤の含量(例えば五ミリグラム錠と一〇ミリグラム錠のどちらか、あるいは双方を流通させるかなど)について医師側と製薬会社側と協議する。品目数の多いことは、医薬品在庫の回転が悪くなり、経時変化など品質管理にも問題を生むし、誤薬にも関係する、という背景がある。
- また、同一成分の製剤が複数存在するときには、誤薬を防ぐために、それらの製剤を区別する方法(例えば五ミリグラム錠と一〇ミリグラム錠の色や形状を違えるとか、区別できる包装や表示を工夫するなど)を製剤の発売以前に製薬会社と協議している。
三、標準包装の協議
処方が製剤の標準包装品の使用に移行(ほとんどの国で九〇パーセント以上という)したため、その包装の入れ目(包装単位、例えば三〇錠入り、一〇〇錠入り)の決め方が大きな問題になってきている(第六章第三節標準包装の再検討参照)。西ドイツでは、保険者、診療医師、製薬会社の団体と、薬剤師会が協議して決めているようである。この場合、第六章で述べたが、大局的な見地で長期に連用する薬は大包装を必要とし、あるいは抗生物質などは大包装を作らせないといった、医療あるいは健保財政上の考慮も払われているようである。
(三)規格の尊重
さらに問題なのは、規格書との関係である。ある薬がよく使われるようになると、薬局方へ収載して規格を決める動きが出てくる。ところが、わが国では規格の重要さが理解されないため、薬局方に収載されないことを望む製薬業者が少なくない。局方医薬品という名がつくと、もう古くさい薬の感じがするとか、ぞろぞろ製品がでてくるとか、薬価基準では商標名で収載されなくなったり、価格も低く押えられやすいという、影響が現われる。このために、わが国ではなるべく規格書に収載されまいとする動きがあるようだ。こうした通念をそのままにしておくと、薬が使いにくくなったり、コントロールが出来難くなることについてすでに述べた通りである。薬の将来を考えたら、その時代時代で適切な規格を制定しなくてはなるまい。そのためには、規格に収載された薬を優遇する心がけが大切である。薬剤師は行政と協力して、こうした規格を尊重する方向に薬を誘導してきたのである。
ところが、指摘したように、わが国では規格に収載されると、経済的に損をするように行政の仕組みが作られている。薬を無理やりに安くされたり、後発品が競争しやすくなるような状況にされてしまう。これでは製薬会社が規格を尊重する風潮にならないのは当り前ともいえよう。
規格をないがしろにすることは、医療や薬剤供給の仲間うちでは倫理に反するとされている(第五章第一節(五)規格を創り出す努力参照)。自らの仲間うちでも規格書を忌避する動きを制御し、薬の指示(処方)をする医師が、薬の規格を尊重する制度が決められるように、昔から薬剤師は務めている。
(四)価格政策
薬の価格は製薬会社が決めるものではある。製品の蔵出し価格を決める権利はその製造者にある事はいうまでもない。しかし、適切な市場が形成されると、競争により適正な市場価格が生まれて来る。消費者に対しては、その価格に一定の利幅を掛けて売られる。したがって、公正な正常な卸売市場を育成して行くことが大切な課題ととらえられているようだ。
A 消費者不在の薬価 −−消費者価格表がない−−
先日、われわれの薬局に、外国で教育を受け、わが国で研修している外国人医師が処方を書きたいといって訪れたので、管理薬剤師の安部君が、わが国の健康保険の薬価基準や調剤料の算定法を説明した時の事である。その外国生まれの医師は、わが国の薬価計算方式に、どうしても納得がいかない、患者が「ぼられて」いるとか「ごまかされている」としか思えない、と言っていたそうである。確かに、わが国の調剤薬価の計算方式は、医師や薬剤師だけに焦点が絞られて、消費者には分かり難く作られている。
中でも問題なのは、薬価基準の説明である。薬価基準はいうまでもなく、健康保険が支払う医薬品の価格である。健康保険の建前からすれば、医療機関と薬局は仕入れ価格で販売する、薬の差益はないことになっている。しかし、消費者はこの薬価基準価格で薬を買うわけではない。必ず、それに技術料や手数料が加算される。いうなれば、薬価基準は「卸売価格表」で、「消費者向け価格表」ではない。さらに、薬価基準と実勢価格の乖離も存在する。消費者(患者)は初めから念頭にないと言われても仕方がないことなのかと気づいた。
たしかに、ヨーロッパで原料を調合・調製して、調剤を行なっていた時代は、原料薬品表で薬の価格を合計し、調剤料を加算する、現在のわが国の薬価計算と同じ方法をとっていた。しかし、標準包装が繁用されるようになって、製剤薬価表(Spezialiteten Liste)が作られて、原料薬品表と二本立てになってからは、消費者価格が明確にされるようになった。わが国の薬価基準表は、原料と製剤価格が一緒になった、未分化の薬価表といえよう。
製剤の価格は、消費者価格表として公表されるのが普通である。消費者価格の中に占める、製薬会社の取り分、薬局薬剤師の費用や健康保険の負担分などが、誰にでも分析できて、検討できる仕組みとなっている。
さらに、ヨーロッパではその会社(国)で使われる薬の、全ての薬価を公定している国も多い。わが国でOTC薬(消費者の判断で直接買える薬)と呼ばれるものも全て含んでいる。わが国の場合、さきにあげたアスピリン錠は薬価基準にも収載されていて、一錠五円である。三〇錠で一五〇円となり、薬局で五〇パーセントのマークアップをしても二二五円でしかない。ところが、消費者用となるとその三倍近い価格が設定されていることは、どうしてなのだろう。これでは、セルフメディケーションの費用が高いから、健康保険受診へドライブがかかることになる。
したがって、価格政策とは、ただ薬が安ければ良いといった簡単なものではない(第三章第六節(二)槍と網参照)。全ての薬をコントロールして、社会全体として最も効果的、効率的に薬を使おうという意図と考え方から出発するものだろう。前にあげた、オーファン・ドラッグと呼ばれる、その社会での需要は小さいが、どうしても必要な薬などにも、かなり気を使うことになる。上手に保護して、その薬がその社会から消滅しないように注意する。そのために、ある程度高い値段をつけて可愛がってやるのが普通なのだそうだ。
B 薬価基準を引き下げると薬剤費が増える −−高額高収益薬品へのシフト−−
わが国の薬価基準は定期的に改訂されることになっている。特に昭和五十六年に大幅に引き下げられてから、毎回かなりの率で引き下げが続いている。ところが、薬価基準を引き下げれば健康保険の薬剤費がその割合で減るかというとそうもいかない。不思議だ、と言う人もある。
使いこなされて有用な薬、例えばアスピリン錠とか、レセルピン錠などは、長年の価格競争によって次第に安くなっている。薬の性質として考えにいれて置かねばならないのは、一つの薬が不当に評価されて安く扱われると、他の同効の薬価の高い薬にシフトして、自分は社会から消えてしまうことである。薬が安くなったといって喜んでばかりもいられない。こうして、有用でも価格の安い薬は、忘れられる傾向となりやすい。
周知のように、わが国では医師が薬を指示し、その医療機関が薬を買って使うのが普通である。このため、どうしても薬のもうけが問題となる。医療の中で、薬でのもうけは特に倫理に反するとはいわれなかったから、もうけなければ損だということになる。それは、薬価基準と実勢価格の差の大きくて高い薬を選ぶことである。
あまりにも安い価格にしておくと、大切な薬なのに、次第に使われなくなる。薬の効能や効果に不足があって使われなくなるのではなく、そこの売り手の経営、経済が絡んでくるのが普通である。製薬会社はアスピリンやレセルピンが安くてもうけが少なくなると、同じ適応症に効く、もっともうけのある(高価な)薬を宣伝して売ることになる。
したがって、薬価基準と実勢価格の差額の大きい、そして高い医薬品にバトンタッチされることが問題になる。医療機関にとってもうけのある薬が魅力的であり、そちらへ動いてしまうのである。
薬剤供給を全く別の組織にしておくと、こうしたことは起こり難い。それが、薬剤サービス制度独立の一つの理由でもあったし、昨今のわが国にも当てはまることである。
健康保険制度では、患者さんは一部負担分しか支払わなくてすむので、薬剤費の内容について詳しく分からない(第七章第三節(四)消費者価格表がない参照)ため不満がでにくい。わが国では、ただ保険財政の面から、指導や取締りが行なわれるだけである。常に薬の収益性について監視して、きめの細かい対策をたてるのが秘訣のようである。繰り返すが、薬の収益性は決して弱いものではない。
ヨーロッパ社会では、こうした場合に専門職者(プロフェッション)である医師や薬剤師の倫理の強調もさることながら、経済社会を誘導する政策も採られるようである。例えば、一日分、一五円の薬が、一日分五〇円の薬にシフトするよりも、一五円の薬の価格を三割増やして二〇円にしてその薬を使った方が、国全体を考慮したマクロ的な経済から見れば有利である、という見方をする国が多い。有用で安い薬の消費を減らさないよう、もしくは消滅するのを防ぐための方策を真剣に案出しようとしている。例えば競争の誘導策として低廉な薬の、マークアップ率を上げるとか、それでも駄目なら、薬剤師が薬局製剤するなどして保護をするわけである。
だから、ただ薬の価格に焦点を絞り、安くしようというのは、極めて、程度が低い方策とされている。薬というものは、価格でも全体のバランスが大切で、それが崩れると消費に歪みを生む性質(第三章参照)を持っている。一般的に、他に代替できる安い薬を、消えてしまわないよう、なだめたり、すかしたりして、その薬を存続させていくのは、そう簡単な仕事ではない。
ちょっと油断すると、とんでもなく高い薬が生まれてくる事も事実である。医薬品同士の間で、適度の競争を保ちながら、最も望ましい薬が素直に使われるために、かなりの努力が必要で、そこに、また薬剤師の薬の責任者としての仕事の一つがある。
わが国ではこうした阿吽の呼吸が理解されていないし、配慮がなされているとは思えない。この辺が、包括的な価格政策の必要な所以であり、本来だったら薬剤師の活躍する場面でもある。薬価基準の改訂の際に、調整品目とか、底上げといって手心を加えるなど、わが国でも多少の配慮が見られるようになってはいるが、底辺の意識には大きな相違があるようだ。
(五)夜間救急体制
わが国の場合、薬局の薬剤師に、地域に対する責任や貢献について関心が低いことは、すでに指摘した通りである。自分の薬局しか視野にいれていないのは、特に開局時間に現われている。薬局は自分勝手に開局時間を決めることになっている。ヨーロッパと比較すると大変に違うところである。好きなときに仕事をすればよい、といった考えが、法的にも薬剤師は調剤応需の規定がありながら、不思議なく通用している。
おかしなことに、その拠り所になっているのは、医師法第二二条の、処方発行の規定の八項目の例外規定である。制定当時、この規定は薬剤師側が涙をのんで譲歩したといわれたものである。ところが最近では、この除外規定を盾に、救急の場合には、医師自ら投薬すればよいという勝手な解釈をする薬剤師がいる。
法の規定を適当に自分に都合のよいように解釈して、それを拠り所にする事も問題であるが、現実にわが国では、夜間休日などの救急医療に関して、真剣な話題となっている地域は極めて少ない。ヨーロッパの事情に精通した方々でも、特に都市部では、夜間や休日の宿直制度を実施していない地域を探す事はできまい(第六章参照)。どこかの国で消費者に受け入れられる制度は、すぐにヨーロッパ中に伝染する、つまり国と国の薬剤師の仲間同士での競争があるようである。わが国には、こうした競争は起きていないが、薬剤供給の遅れは、地域医療体制のエアポケットになる恐れがあろう。
地域の薬剤サービスの水準を引き上げようとする時に問題になるのは、上に述べたその地域の薬局薬剤師の意識、協力の度合いの違いである。何人かの薬剤師は協力する意志があっても、他の何人かの薬剤師は、とても引き受けられないという。わが国の薬局の零細さである。経済的にも無理だし、まあ現状で食えるから、損はしたくないということである。
こうした場合に、協力する薬剤師だけで、救急体制をとったら、その薬剤師達だけが負担を背負うことになり、みるみる疲弊してしまうに違いない。他の薬剤師達は、負担なしに、美味しいところだけを食べることになる。
これでは始まらない。夜間・休日の薬剤サービスは地域として基本的な問題であり、われわれは、どんな対策を立てたら良いのだろうか。
(六)行政の役割
わが国はヨーロッパと比較して、中央集権制の歴史が古いし、優秀な官僚と行政機構を持っている。このために、様々な分野でもヨーロッパでは考えられない行政の関与がなされている。
先にも述べたが、ヨーロッパでは、職業人とその団体が、職業自治を標榜して、自らの職業に関して自治的な行政を、職業人自身の責任として行なっている印象を受ける。特に医療や薬剤供給に関しては、関係する職業人がプロフェッションであることから、すっかり職業人に任せきりと誤解するほどである。しかし、やはり行政は重要な役割を担っているようである。
外来者の目に映るそれは、立法府と共に国民の視点からの、職業人の間の権限の調整である。行政者は職業人のギルドの長い歴史を踏まえて、職業人のエゴを上手にあしらい、結局は国民の利益に帰するように、職業人をリードし、権限・業権を調整しているように見える。薬剤師の周辺でも、医師、看護婦、製薬会社、卸業者などの役割、権限、義務をうまく割り振っているのは、重要な行政の役割に見える。
医師の受け持つ医療と、薬剤師の薬剤供給の接点は、やはり争いの種になって来たものであろう。立法と行政はそれに対して先見性を持った公正な判断によって調整してきたものと思われる。
薬の場合でも、管理の責任は薬剤師に任せてしまっているが、患者への使用に関しては、医師がしっかりと押さえていることを基本として、細かいところまで巧妙に定めているようである。例えば同じ医師が薬の製造承認に関与するだけでなく、患者に対して薬を選定し、また、薬の購入のリーダーシップも握るなどということはあり得ない話である。職業人の中で権限(権力)の集中を防ぎ分散させ、そして実務に支障を来さない、学問技術の進歩を阻害しない方策がとれるのは、歴史を生かし、表には立たないが、消費者の立場や利益をしっかりと守るという行政の伝統があるからであろう。