第三章
第六節 人間社会と薬のかけひき
(一) 性質の二面性
物事に二つの面があって、一つを強調すると他の一つがおろそかになるということがある。学生生活で、クラブ活動やカレッジライフを楽しみすぎると、勉強がおろそかになる。勉強にばかり励みすぎると、友達もつくれないということがある。見方が一面的すぎると、快適な学生生活はおくれない。先生や先輩、あるいは友人の助言、自分自身の観察力や判断力を生かして、能動的な態度をとることが、調和のとれた学生生活の基本となるとは、よくいわれることである。
薬も同じ事である。国民の便利さを強調しすぎる社会では、薬の方は、自分を尊重して扱ってくれないと駄々をこねる。もっときちんと管理してくれという要求をする。人間の方でこれを聴いてやらないと、勝手に暴力団などに自分(薬)を売り込んで、麻薬中毒などの手先になり、手助けを始める。だからといって、薬を恐がって厳しい管理をすると、薬は人間を召使いのように扱う。国民は、薬を必要なときに手にいれることができなくなり、多くの人々が不便で困るばかりでなく、助かる病人も助からないような社会になる。
さらに国民の立場から、供給の内容も充実させ、技術水準も向上するような、その上、過疎の山漁村まで十分に便宜をはかった供給をしようとすると、薬はとてつもなく高価になる。効率的な供給が可能となるように、国民全体が多少の不便を忍ぶことにすると、考えている以上に薬が安く使えるようになる。といった、二律背反的な現象を、多くの国ではうまく秤にかけて薬の政策を決めている。
(二)槍と網
薬の、物事の裏をかく狡猾な性質について述べてきたが、まだまだいろいろな問題がある。例えば、上手に価格を決めてやらない場合や不十分な競争状態に置くと、知らぬ間に高くなってしまう。だからといって高いのはけしからんと、ただやたらと安くしようと無理をすると、その時は、しぶしぶ言うことを聞くが、しばらくすると、目だたないように他の高価な薬とすり替わり、その薬自身は消滅してしまって、人間の知恵の足りなさを笑って、蔭で舌を出しているようなところがある。
特殊な病気にしか使えない、使用量の少ない薬の値段をちょっと下げたためにその薬が社会から消えてしまうことがある。使用量は少ないが、代わりになる薬のない特別な薬に、オーファンドラックという名前を付けたりして、大切にしている社会もある。もっと少ししか使われない薬は、価格を安くしなくても、その社会に姿を現わさなかったり、自然に消えてしまうことすらある。薬はそれで人間社会に復讐したつもりになっているに違いない。代わりの薬のない場合には、その社会は病人を治療する手段を持たなくなったことになる。困るのは患者さん(消費者)である。賢い社会では、薬の性質の相関性に十分な注意を払っている。価格と本質とは密接な関係で結ばれている。副作用を考えずに、やたらと、値段をいじることはしないのである。
薬といっても大ざっぱに考えることはしないで、基本的な、ヨク使われる薬をエッセンシャル・ドラッグと呼んで、生産流通、消費を注意深く見守ったりする。
社会が薬を問題にする場合、例えば価格問題について焦点を絞り、視野を広くして、総合的な対策を立てようとする。焦点を絞ると、薬は鰻のように、ぬらりくらりと逃げてしまうのである。こうした場合、周囲からだんだんに押え込む作戦をとるのが普通である。これなども一つの技術といえるほどの周到な方法をとるのである。つまり、決して槍で突くような真似はしないで、すっぽりと網を掛けて、全部をそっくり生け捕りにするといった方法をとるのである。
(三)薬の性質を研究する学問と技術 −−なかなか引き出せない良い性質−−
食品といっても、米麦のように主食もあれば生鮮食料品もある。インスタントラーメンのような加工食品や菓子の類も食品である。一概に食品といっても、千差万別である。同じように薬も区別して扱う必要がある。わが国には今でも、薬局で消費者に売られる一般薬と、医療用薬、血液製剤などの区別があるが、分類が硬直化しているように見える。もっと違った見方からのグループ分けがされる。
この、小グループ別の共通の性質を理解して扱うのがまた薬の取扱いの特長である。その小グループ毎に、繊細に、柔軟な態度で良い性質を引出してやらないと、せっかくのよい性質が隠されてしまうというところがある。
こうした薬の性質は、一つ一つを取り上げても複雑であるが、またそれが互いに影響し合って、なおさら難しい複合した性質を示すこともある。そこまで考えて、薬を扱うのである。
つまり、薬に対しては、その性質を熟知した上であらかじめ総合的な対応策を立て、その一つ一つを有機的に結びつけて、網を作り、抜け穴や、網の目をくぐることのできないことを確認しながら注意深く、網を意識させないように扱うのが、人間側の知恵となっている。これが前章で述べた「天網恢恢而不失」の例である。
こうなると、薬の効き方や調剤以外に、薬と社会との関係の研究も一つの学問や技術として成り立つほど複雑で難しいことだ、ということが理解されたと思う。そして社会で薬が、良い性質のみを現わすように、工夫し、研究し、実務を修めるのが、まさに薬剤師であり、化学のおこる以前からの、薬学の本筋なのだと思う。
わが国では薬学を化学の一分野として、薬の製造の面の学問技術としてしか輸入しなかったと考えられる。これは、当時後進国であったわが国では致し方のないことだったかもしれない。
薬の製造の研究には国籍はない。日本人が米国で研究できるし、ヨーロッパの人が日本でも研究できる。ところが薬と社会との関係は、その国独特のものである。つまり日本は日本、米国は米国なのである。薬の社会とのかかわり合いは、共通な原則や、一般論だけでは通用しない独特な点を探し出すことが大切である。その社会が、自ら体系を創り上げなければならないものなのである。
したがって、薬剤師の資格はその国に国籍を持ち、そこに住む者だけに与えられる。
次章では、何百年も前から、薬と社会との関わり合いを学問と認め、技術として育てたヨーロッパでの、専門職業人の発達について、その歴史を調べてみることとしよう。