第三章
第五節 コミュニティでの薬の性質の制御
わが国は、社会での薬の動勢について、薬を規制(取締り)すれば、それで良いと思いこんで来た社会であった。ところが、人間の集まった場所(地域社会)で、薬をうまく使うには、規則だけでは足りない。別のやり方が必要なのである。そこまで住民の面倒を見てきたのが、ヨーロッパ社会である。薬の扱い方で、わが国と一番の相違はこの点である。ここで、それがどんな内容なのか調べてみよう。
(一)コミュニティ(地域社会)とは −−人の住む環境−−
わが国では、空き地や農地をつぶして一軒の家が建ち始める、すると、その近所に一軒また一軒と家が建つ、という形で人が住む地域ができる。また、何十戸かの小規模の宅地が造成されて住宅が建つ、ということも多かった。電気だけが供給される、その住宅に住むためには、井戸を掘ったり、浄化槽を埋め込まねばならない。上下水道をはじめ、公衆衛生、教育、文化、医療、交通、通信などの便宜は、しばらくして、あとから、だんだんに整備されるのが当り前だった。国中どこでも、土地さえあれば家が建てられた。不便でも少しでも広い住宅が欲しかったのが、庶民の願望だったといって過言ではない。わが国の、おらが村といっても、それは決して住みよい村(環境)を意味してはいなかった。
最近、それが変化し始めている。人の住む環境とは、土地と住宅だけではないと考えられるようになった。人々は、豊かな生活を指向し始めている。住む家と、お金があるだけでは、本当に豊かな生活にはならないと気が付いたのである。よい自然と、生活環境が必要なのである。
家庭が数十、数百集まった住宅の集合をコミュニティと呼ぶ。「住みよいコミュニティ」「コミュニティセンターの建設」などといわれ始めている。コミュニティを近隣社会と訳すのは適訳とは思わないが、ただの住宅地という感覚よりずっとましである。先にあげた、上下水道や教育、医療などの施設の、全ての水準が凹凸なく整備され、さらに良い隣人に恵まれるのが、良いコミュニティだろう。
先進国では「良いお住まいですね」と住宅をいうより「良いコミュニティにお住まいですね」と土地柄をいう方が、自然なほめ言葉に感じられる。
つい最近まで、われわれはコミュニティという感覚で自分の家庭の周囲、環境を考えたことはなかったように思われるが、急速に変化している。
コミュニティの語感、概念が理解されるようになったことは大変に喜ばしい。というのは、豊かな生活と薬の間には深い関係があり、その関係を説明するのにコミュニティを基礎として始められるからである。説明して理解されやすくなったからである。
(二)身近におく薬、携帯する薬、コミュニティに蓄える薬 −−急場の薬−−
旅行先で、薬が買えなくて困った経験をしたことはないだろうか。山歩きをして、虫に刺されたり、ちょっとした傷をつくった時など、薬を持ってくるのだったと後悔したことはないだろうか。いつ薬が必要になるのか、予想できないところに薬の一つの性質が潜んでいる。欲しい時にどうしても要るのが薬である。代わりがきかないのも薬である。家庭に常備薬を備えるのもこの為である。救急の時に薬がない、手に入らないと、いくらお金を払っても良いから急場の薬が欲しいと思うこともある。
こうした急場に必要な薬を含めて、生活や医療に使われる、すべての薬が揃っているのが良いコミュニティである。人々の住む場所の、一つの条件である。
しばらく前まで、新聞によく「幼児、助かる」といった見出しで、僻地の幼児が破傷風にかかり、その処置のために、東京のセンターから県警のパトカーがリレーして血清を運び事なきを得た、という記事が掲載された。これは、一見美談風であるが、実は、その社会としては、まことに恥ずかしい話なのである。緊急に必要な薬は、すべてそのコミュニティに蓄えられるのが原則なのである。残念ながらわが国ではこの面についての関心が薄いし、意識が低い。特別な機関(赤十字など)が、特別にお金をかけて貯蔵したりしている。薬剤の供給がうまく行なわれている国では、そのために、特別にお金をかけたりはせず、薬局にはその地域で使われる薬の、すべてを蓄える義務を負わしている例が多い。
(三)薬の地域分布 −−コミュニティの薬の備蓄−−
明治の頃の先覚者の伝記に、小学校、中学校に三、四里(約一〇〜一五キロメートル)を歩いて通った話が、しばしばでてくる。寺小屋や塾しかなかった、徳川時代では考えられないことである。どのコミュニティにも、小学校を設置し住民の全部が通学することは、革命的な変化だったに違いない。今では、さらに小学校の地域分布も改善されたし、交通の便も良くなっている。
さて、薬の場合は、われわれは徳川時代に住んでいる。よい検定済みの教科書(承認された薬)は売られているので、勉強はできる。しかし、コミュニティに小学校がない状態である。初等教育制度の水準というのは、教科書も重要であろうが、学校の地域分布とか、教員の質の方が、むしろ重要と考えられているようだ。こうした、小学校や郵便局と同じことで、コミュニティの住民に必要とされる薬を完全に備えるのは、先進諸国のコミュニティの常識である。同時に、人々の住む場所であるコミュニティのすべてで、なん時たりとも、どんな薬でも住民が利用できる状態になっているのが、薬の本質的な性質の一つとされる。
病人は弱みにつけこまれることなく、休日でも深夜でも、何時なりとも適切な値段で買うことのできるのが薬である。ヨーロッパのほとんどの国で薬局は当番制を敷いている(写真3・2)。地域薬剤サービスは薬局に公共の義務を負わし、薬剤師はそれを忠実に守っている。これも、薬の特長の一つであり、それが良いコミュニティの条件なのである。それを、地域薬剤(供給)サービスと呼んでいる。
(四)地域医療
地域医療が話題になり、問題にされてきている。これまでは、医療機関の技術水準の高さ、医療水準の向上についてのみに関心が払われていた。消化器ならA病院、循環器ならB病院という具合である。しかし、その病院の医療技術が、どれだけ高くとも、夜間、休日の救急患者を受け入れないので、急病人は隣町まで行かねばならないということであれば、地域医療から見れば、それは良い病院とはいえない。
医療機関のコミュニティでの役割について、関心の低かったことを反省しなければなるまい。わが国でも、最近医療法を改正して、地域医療に焦点を当てようとしている。こうした、コミュニティを考慮にいれた医療が、地域医療サービスである。
わが国では、薬の中にコミュニティという考え方がないので、薬局の在庫は売れそうな薬だけであるし、医院・病院に備える薬は、いつでも使う薬だけを購入しておけば良いことになっている。普通の診療だけに差し支えなく備蓄されていれば良いという考え方である。
ところが、成熟した社会では、これだけではすまない。ヨーロッパでは、薬はどのコミュニティでもその国で承認されている、すべての種類を備えることが望ましいとされている。もしもの時、救急の時に必要な薬を常備してくれている所(薬局)が欲しくなるのである。わが国の国立病院とか、医科大学の付属病院の薬局と、同程度の種類の薬を備蓄している薬局を、全てのコミュニティに置くというのである。わが国では、それがどれだけ住民の立場から貴重なこと、良いことなのかを住民に理解されないところに問題がある。夢物語と受け取られる。
一方、ヨーロッパでは住民のコミュニティ意識が強いためか、この考え方は昔から抵抗なく受け入れられているようだ。
小学校だけでなく、中学校、高校、そして保育所、幼稚園までが設置されることが、よいコミュニティの条件、もしくは常識になってきている。コミュニティに全ての薬を備え、住民がいつでもそれを利用できることは、決して夢物語ではない。コミュニティの暮らしの水準の指標なのである。
医師の診察を受けたら、その場で、すぐ薬が手にはいるといった、便宜の良さだけの低い次元だけで薬を考えるのではなく、コミュニティでの、完全な薬剤サービス体制が求められ始めていることである。
(五)地域薬剤サービス −−便宜と完全の二者択一−−
わが国の地域医療サービスでは、医療機関が薬を扱っていたので、薬は医療の中に取り込まれている。それを誰も不思議に思わない。が、本来、医療ときわめて近い距離にあるが、その中に入らず、独立しているのが薬剤サービスである。ヨーロッパの国々の薬剤供給は、独立した制度と組織を持っていることが多い。
ヨーロッパでなぜ、医療の中に薬を置かないのか、患者さんに不便ではないか、と尋ねると、では反対に医療の場に薬を置いたらどうなるかと、反問される。
最も重要な点は、現在のコミュニティ薬剤サービスでは、ふだん使わない薬まで、数千種類の薬を薬局に備蓄していることである。薬は数千種類にわたって地域に置き、完全な管理をするモノなのだ。すべての医療機関にこれと同じ程度の薬の備蓄を義務づけることは、とてもできない相談だという。使用頻度が低くなるので、変質する薬も出てこようし、そんな薬を使われても困るという。また、一部の薬を医師が出すのは、供給効率に問題が生まれ、薬が高くなるという。数千種類もの薬の管理など、そんな面倒なことを医師が引き受けないという。医師の方も、そんな専門外のことを引き受ける暇はないという。
コミュニティでの薬剤備蓄の水準を上げようとすれば、薬を集中的に管理する以外に方法はない。それで住民の便宜を損なわない方法が真剣に考えられるのである。こういう状態からみると、わが国のコミュニティでの薬の備蓄は、およそ貧弱なものである。だから、医療機関が薬を持つこともできるし、患者さんの便宜だけが問題になっている。
薬局と医療機関の双方に、広範な薬の備蓄を義務づけることは、二重投資となり、国のレベルで見れば、薬代が高くなることである。結局は国民の負担を増やすことになる(第七章参照)から、コミュニティの薬の管理は薬剤師に全面的に任せ、一元的な供給をしようというのが、ヨーロッパの人々の考え方である。
どんな薬でも、いつでも、完全に住民に供給できる体制が良いのか、不完全でも面倒なく薬が手に入る方がよいのか、その二者択一の選択の相違が、わが国とヨーロッパ社会の違いである。
住民も、医師がこうした考え方であるから、薬剤師はそれに対応した体制作りをしている。地域医療サービスがうまく運営されるように留意して、薬剤師は医療サービスと密接な関係にある、薬剤サービスを、責任を持って引き受けている。この、地域薬剤サービスこそが、わが国でいう医薬分業制度である。
(六)医師の処方権 −−医師の協力者−−
なぜ、コミュニティにそれだけの薬剤備蓄が必要なのかとの質問に、医師達は医師の処方権を守るためと説明する。すなわち、医師は患者に処方する権利を持っている。裏返していえば、医師は患者に対して、最も適切な薬を処方する義務があることだという。その義務は、コミュニティにその国で承認されている、すべての薬の備蓄があり、その中から自由に薬を選択することができねばならない。そこで初めて可能となることである。もし、医師に薬を持つことが許されたとしても、限定された薬ではその義務が果たせない。したがって、医師の処方権の完全な遂行には、コミュニティに多くの薬の在庫を持つ薬剤師の協力が必要なのだという。
こうした考え方から、ヨーロッパでは、コミュニティの薬剤師の協力によって、医師の処方権は守られているという見方をしているようである。こうして、地域医療の協力者としての薬剤師の立場が明確にされ、コミュニティの薬剤サービスの役割が決まることとなる。
例をあげれば、スウェーデンで、コミュニティの薬剤サービスの基本的な考え方として、薬剤師は特に次にあげる諸点について、コミュニティの住民の同意を得ようとしている。
- 消費者と薬局との距離の最大はどの程度まで許されるか。
- 昼間、夕刻、夜間、休日の各々での薬を入手する不便さはどの程度に抑えるか。
- 標準的な薬局に備蓄される薬品の範囲、品目数(品揃え)はどの程度か。
- 消費者が薬局の薬剤師から得たい情報や助言の量と質は。
コミュニティに対して、ヨーロッパ各国の薬剤師達はほとんど例外なく、これと同じ狙いをつけている。
薬局の薬剤師は、ただ薬を売っているだけではないのである。住民からの要請のある、コミュニティに対する薬剤師の責任の全てを、満足させねばならないのである。調剤だけに目が行っては、こうした薬剤サービスは円滑に実施されない。その国の医療サービスへの協力は進まないのである。地域住民の薬剤師への期待は総合的なサービスの向上である。
後で述べるが、こうした薬局薬剤師の公共サービスの精神は、十九世紀までに薬剤師体質に深くとけ込んでしまっている。
●この項のまとめ
ここで、コミュニティ(地域社会)と関連した薬の性質をまとめてみよう。
薬は、人の住むところ(コミュニティ)の、どこでも、いつでも、望む品を誰もが手に入れられるように準備されていなければならない性質を持っている。これを言いかえれば、
- 生活必需性
- 地域分布性
- 緊急性
- 非代替性
- 要低廉性
とともに薬が複数の人間の住む場所、コミュニティ(地域社会)という面で使われる場合には、個人に示す性質と違った性質を持つことに気が付かねばならない。その両面をともに上手に操るのがその社会の仕事である。
ということになろうか。
何度も繰り返すが、わが国では、これまで、薬そのものの性質については関心が集まっていたが、人々の集団(コミュニティ)に向いた面について関心が低かった。放って置いても自然とうまく行くに違いないと考えられていたのであろうか。もし薬で困ることが起きたなら、行政が取締りを行えばそれですむ、位に考えられていた。人間の集団に対して示す、薬の性質を管理するのに、特別に専門家を決めて、腰をいれて長年の間、真剣に取り組んでいる国々と対象的だったのである。さらに、コミュニティという概念が導入されて、高度の薬の集積施設(薬局)がコミュニティに必須と知って驚いているのが、わが国の現状である。
(七)間違いやすい薬 −−伝わり難い本当の情報−−
特に、土曜の晩とか日曜日が多いが、患者さんから電話がかかってくる。
「念のために聞きたいが、以前に処方せんで調剤してもらった、白い錠剤の薬は頭痛止めでしたね」
わが薬局のコンピュータ・システムは患者さんの氏名や生年月日などから、その患者さんの調剤記録をすぐに引き出すことができる。さっそく、その患者さんの薬歴を調べてみる。
「その薬は高血圧の治療で使ったものです。今の貴方は、当時の症状と違うから、別の薬を使っていますね。その白い錠剤はのんではいけません。薬も古くなっていますから、捨ててしまって下さい」
こうした問い合わせはしばしば受けるものである。そして、そのほとんどが、薬を間違えて覚えており、もしも、そのままのんだら効果どころか害がある。わざわざ薬局の薬剤師に問い合わせないで、のんでしまう人も多いに違いない。危ないことである。副作用(前章参照)にたいへん敏感な患者さんも、一度のんだことのある薬については、案外と無神経なことが多い。実は副作用はこうしたのみ方から起きやすいものである。
誰にとっても、薬の性質は常識として知っていると思い込んでいる。ところが、本当の難しさは、案外と知られていないものである。あやふやな記憶や間違った記憶は危険につながっている。
薬は評価の難しいモノである。
間違って記憶した薬によって被害を受けるのは患者さん自身ではあるが、放って置けない問題である。こうした時に、患者の住むコミュニティに、薬に関して正しい情報を提供できる責任者がいなくてはならないというのが、ヨーロッパのコミュニティの住民の考えである。
(八)薬に頼るだけからの脱却 −−よく聞いて、よい答えを−−
科学的な正しい情報は、積極的に報道され、国民に提供されなければならないことはいうまでもない。
高齢社会となったわが国の、最近の成人病、老年病といわれる病気はほとんどが慢性病である。検診などで糖尿病や高血圧症が発見されて、治療が始まる。ところが、自覚症状のない軽症のうちに病気の治療が始まると、なかなかに治療が継続しない。外見も健康人であるし、自分も病気だと思えない状態では、せっかくの薬ものんだりのまなかったりになる。これでは薬は効く筈がない。しかし、糖尿病や動脈硬化はなくなってしまうわけではない。依然として、体の中に残って、静かに進行するのが普通である。
世界中でこうした自覚症状のない患者さんが増えている。そして、この場合に医師の強制による治療はうまく行かない、といわれている。病気を治すのは、患者の治ろうとする心構え、意志が基本だ、といわれている。その上で薬を使うのである。病気を治すのは、その患者の持つ回復力や意志であり、医師と適切に選ばれた薬が、回復を助ける役割を果たしているのだというのである。
その、患者の意志を作るのは、適切な情報だといわれ、患者さんに情報を与える工夫が盛んである。米国で、ゲットアンサー、ギブアンサー(よく聞き、よい答えを)という運動が始まったり、ヨーロッパでも薬局で医薬品の解説書、説明書がよく売れているということからも、裏書される。また、患者さんの薬ののみ方について薬局の薬剤師が追跡して指導するといった動きもでてきている。
こうした動きは、すぐ薬に頼ろうという心が生まれてくる患者心理を利用して、非科学的な効能を患者に信じこませようとする輩が、いつの時代にも、どの社会にも少なからず存在することも背景になっている。もっと効く薬を探して、だんだんといかさま薬の餌食になる人々が少なくないのである。
薬が病気を治す手助けをするという、良い性質だけを持っているならば問題は小さい。そうでないところが問題である。でたらめを信じこませようとする、不正をしてまでももうけようとする人々に、利用されやすいばかりでなく、嬉しげに悪人達の手先や、道具にされるのも、また薬なのである。薬は人間という生き物の、または人間性の裏をかく、というよこしまな、嫌な性質をも合わせ持っていることを忘れないようにしたいものである。
このために、コミュニティの住民に対する薬についての正しい、継続的な、科学的な情報の周知は欠くことができないことで、それを援助する、薬剤師達の努力が期待されている。
(九)薬についての消費者教育
これは自動車の運転に例えることができる。誰でも自動車を買うことはできるが、運転となると通行人など社会の人々に迷惑を与えないように、免許証を持った人でないと運転してはいけないと世界中の国で規制している。もし規制しない国があるとするならば、それは、事故を起こしても社会に迷惑をかけないような環境の国か、あるいは人に迷惑をかけることのないように必ず練習をしてから運転するし、歩行者も交通道徳をきちっと守る国民ばかりという、国民の民度の高い国のどちらかであろう。
薬の場合も、この民度の高さが問題なのである。薬の濫用も、買った人だけの被害で終わらないところに問題がある。他の多くの人に迷惑をかける、つまり、社会に害毒を流す事が多いために、それで、どこの社会でも、心ならずも規制や制限を加えなければならないことになる。従って、国民全部が濫用に注意すれば、規制は最小限度に押さえられる。ということから、解決の道はしつけとか教育にあるといわれている。国民に、幼少の頃から薬の科学的な常識、知識を教育することが課題となる。薬の先進国では、薬の消費者教育を三段階に分けている。
- 義務教育期間中に行なうもの
- 一般消費者(国民)を対象とするもの
- 患者を対象とするもの
というわけで、コミュニティの住民は薬に対して素手で立ち向わないように、適切な教育を受けられるよう、長年にわたっての努力が重ねられている。
薬は毒殺に用いられたり、不注意で他人に危害を与えたり、また、使う自分を傷つける恐れがある。麻薬や覚醒剤にみられる、快楽を求めての使用も防がねばならない。そして、大切なことは、その性質を利用してもうけようとする人々に、薬を道具として使わせない事、つまり薬を規制することが、社会の安全を守る上で避けられない政策となる。同時に、規制により流通に障害が生まれたり、薬の値段が高くならないため、また自分が患者になった場合、その病気や薬を科学的に理解し、治療に協力する態度をとり、治療の効果をあげることが大切である。このため、国民を対象とした、薬についての教育がなされることが必須である(写真3・3)。
● この項のまとめ
薬の規制の理由を知り、それに協力する態度はこうして生まれる。国民への教育は地域の薬の責任者である薬剤師が主体となって行なわれるのが普通である。これを薬の性質としていうならば、
- 耽溺性と習慣性・依存性
- 要管理性
- 要科学性
- 要教育性を持つ
となろうか。