第三章
第三節 社会全体で薬を規制する −−社会で檻に入れる−−
製造と、流通面で薬を規制するだけでなく、薬はそれ以外に制限を加えなければならないモノである。その概要を調べてみよう。
(一) 相手によって変わる薬の性質 −−外面(そとづら)の悪い薬−−
薬が、患者さんという一人の個人に使われるときには比較的、問題は少ない。数人の個人の集合である家庭で使われる場合には、薬の効能効果だけではない、新しい、別な性質に注意を向けなければならない。薬は関係する人が増えると、急速に取扱いが難しくなるものである。薬の害作用に注意しなくてはならなくなる。
独身家庭では、薬は比較的簡単に扱える。そこらに放って置いても、他の誰かが、間違ってのむわけではない。夫婦という複数の人の住む家庭となると、もうちょっと面倒になる。夫と妻の薬を区別する表示が必要である。子供が生まれるともっと面倒になる。子供の薬と大人の薬を間違えたら大事になるから、表示だけでなく、子供が間違えてのまないように置き場所にも注意する必要がある。たとえ子供の手に触れることがあっても開けられないように、チャイルドプルーフと呼ばれる栓をした瓶に入れることを強制している国もある(写真3・1)。
息子によく効いた咳の薬を、お祖父さんにも効くだろうとのませたら、高血圧がひどくなったり、心臓発作を起こしたということもある。誰かに効く薬は必ずしも他の人に効かない。むしろ害になることの方が多い。
家庭から外に出ると、薬はもっと難しくなるものである。家庭ではいつもにこにこ笑顔で子煩悩のくせに、会社では厳しくて笑顔を見せたことがないという、外面と内面の違う人がいる。「あの人はそと面が悪い」という。薬も、こうした外面の悪い親父に似ている。
つまり、薬の内面である効能効果と、全く違う外面があり、外面はそれなりに対処する必要があるということである。
(二)売ってくれない薬 −−消費者の便宜に逆行する−−
お金さえ払えば、どんなものでも買えるのが世の中である。むしろ、買って下さいと売り込むのが普通である。一般に商品が買えないというのは、お金がないか、足りない時だけである。
ところが、薬はお金を払うといっても売ってくれないことがある。この不便さを不愉快に思う人が少なくない。以前に、のんだ薬で、良く効いたことを思いだして、次に薬局で買おうとしても売ってくれない、ということがある。診察を受けて、処方せんをもらってくださいといわれることもある。なぜ買えないのかと、不満を感じた経験を持つ人は少なくないはずである。薬局の薬剤師は消費者から、このことでたびたび不満の声を聞いている。薬剤師は不親切だとか、消費者の便宜に逆行しているというわけである。やくざっぽい人々からは「なぜ売らない」と、脅かされることも珍しいことではない。
その典型的な例が、毒劇薬、毒劇物である。この仲間の薬は数百年も前から、規制されている。野放しにして勝手にさせておくと、どこの社会でも毒殺に使われたり、あるいは、間違った使い方のためにヒトを傷つけるなど、必ず問題を起こすことが知られていた。
十九世紀のはじめに、ゼルチュナーという薬剤師が植物のケシからモルヒネを抽出した。この痛み止めに有効な薬は、大抵の痛みを止める優れた性質を持つ反面、耽溺性とか依存性という術語で言い表される、手に負えない厄介な性質を合わせ持っていたのである。薬学が進歩して、毒劇薬とは別に、麻薬という管理の難しい薬を抱えねばならなくなった。
今世紀に入って、抗生物質やステロイドが生まれた。精神活性を持つ薬なども新たに開発された。野放しにはできないこれらの規制を要する薬の範囲は急速に拡大しているのである。善良な住民を守るために、数百年も昔から薬局の薬剤師は毒劇薬の管理を受け持っている。買い手に署名(押印)を要求したり、医師以外は指示できないなど、特別な管理を要する薬の範囲はさらに広がりつつある。したがって、薬剤師の薬の番人としての役割はますます大きくなってきている。
実は、これも薬に関する社会の知恵の一つである。薬を野放しにすると、間違って使ったり、のみ過ぎたり、つまり社会は薬の誤用、濫用の防止のために、薬の販売を規制するのである。消費者の危険を考慮しない、悪徳薬剤師はもうけ本位でどんどん売ることになろう。薬を売らない薬剤師は、安全を守ったとして消費者からほめられるのが本当だが、現実的にわが国の薬剤師は、しばしば逆の評価を受けている。
どこの国でも薬を、誰でも買える薬、署名(押印)を要する薬や、医師のみが指示できるモノに分類して、薬剤師に勝手な販売をさせぬよう規制している。
(三)危険な薬を規制する −−社会から、薬を隔離する−−
一部の薬はこうして、社会から隔離しなければならない性質を持っている。「咳止めドリンク」を高校生が習慣的に飲んでいたことが新聞に報道された。薬の濫用の典型である。薬を本来の目的の治療に使わずに復讐の道具としたり、あるいは知識が足りないために、意図せずにヒトを傷つけるように使うことを防止しなければならなかった。またいつの時代にも必ず存在する、薬をもうけの道具にしようという、下心のある人々の道具にされないように、将来とも注意せねばならない。意志が弱くて誘惑されやすい人達、特に青少年など周囲に影響されやすい人々に、上手に麻薬や覚醒剤を勧める悪人は、決してなくならない。そして、すぐに中毒患者に仕立て上げてしまう。中毒になれば、薬はやめるにやめられなくなる。こうしておいて、その弱みにつけこんで暴利をむさぼろうというわけである。つまり、薬を社会からできるだけ隔離して、高校生などの目に触れないようにすべきだという主張がされる。
そこで、手軽に、どこにでも薬を置いてあるとか、買える状態にせず、薬局という施設だけに薬を貯えることとしたのがヨーロッパ社会である。しかし、わが国では一般販売業とか薬種商とか、便宜を優先した取扱業者が数多く存在する。
(四)薬の規制についての工夫
さて、安易に規制を強化すると、薬は次第に高価になるだけでなく、使いたいときに使えなくなって、善良な消費者は大きな迷惑を受けることになる。販売の規制には様々な副作用が出てくるものである。薬を扱う長い歴史の中には、様々な教訓が隠されており、むしろ規制を最小限度ですます方策を、多くの国で考えている。例えば、下手に販売の規制をするより、薬局の数を増やさないことで、一面で効率的な薬の供給を確保しながら、規制の実をあげようとするのが、一般的な方策である。消費者への便利と競争による価格の低下を考えて、販売者(供給点)を多くしすぎると、かえってうまく規制できないし、価格はかえって上昇すると知っているのが、これもまたヨーロッパ社会である。
(五)薬の評判と広告規制 −−非科学的な情報の排除−−
よく効く薬がある、という評判は瞬く間に広がる。胃の悪い人にアロエがいいとか、九竜虫や「くこ」も、何年かの周期で流行を繰り返している。よく効く薬とか、高貴薬、万能薬という言葉は、魔法の呪文である。不老長寿を求める欲望は昔から強いものがあるし、今でも変わらない。こういう評判にごまかされたりして、被害を受ける数知れないほど多くの善良な人達がいる。よく効いたという体験談で、沢山の人が右往左往するのが薬である。
また、悪い評判も立ちやすい。あの薬に副作用が出たという話は、マスコミの絶好の話題でもある(副作用のない薬はないということを思い出して頂きたい)。薬害に対する関心を喚起することも大切であるが、感情的な報道は、薬へのいたずらな恐怖心を喚起する。必要な薬を使わず、治る病気も治らなくなるという副作用を持っていることに注意したいものである。
薬の情報を野放しにすると、薬は、多くの人々の非科学的な好奇心の対象にされてしまう。それが、学問的に正しくなくとも、根強い噂となってしまうのも薬の性質の一面と言えよう。
したがって、成熟した社会で報道関係者の良識と理性的な態度が求められるのは、非科学的な情報を社会から締め出すことによって、誤用、濫用を防ぎながら、薬の安全を守ろうという趣旨である。
さらに、消費者が良質で安価な製品を使うことが出来るように、広告によって消費を喚起することは、一般的な商品に共通した原則である。ところが、この原則も残念ながら薬には通用しない。昭和三十年代には一般紙に抗生物質の広告がされたが、現在は規制されている。要処方薬(医療用医薬品)の広告については、かなり厳しい規制がなされるのも、薬の性質の一つである。これも、社会の知恵の一つである。