|
|
解説
世界一の開局薬剤師
掘 信幸
医薬品業界に係わりを持つようになってから4半世紀、「DRUG VIEW POINTS」を創刊して7年余になるが、その間沢山の薬剤師の方々と親しくなったのは当然であるとしても、私が名実共に世界一の開局薬剤師だと信じて疑わないのが、水野陸郎先生である。
その理由は、水野先生が「薬剤師の仕事はいかにあるべきか?」を常に考えておられるばかりでなく、更に積極的に剤界をリ-ドして発言し、先見性に富むその考え方を、実地に生かして来られたという一点にある。
端的な例が、クリニカル・ファ-マシ-の実践である。情報化社会という技術革新の新しい波にいち早く着目、コンピュ-タを駆使しての患者志向調剤(APO-S)を開発、その調剤技術水準は、先進諸国の中にあっても抜群であって、並の調剤薬局では、真似のできない高さに達している。
水野先生は、「DRUG VIEW POINTS」へ寄稿して頂いている論客のお一人だが、薬局調剤30年間の実績の中で、様々の機会に絶えず発言して来られた結果としての論文、随想および対談等の量は実に膨大で、このままではいつしか散逸し、収拾がつかなくなるかも知れないことを憂慮、後進薬剤師のため「この際是非おまとめになったら」と水野先生におすすめしたところ、「それじゃ手伝って欲しい」ということになり、このライフワ-クの記録ともいうべき『開局薬剤師30年』が刊行される運びにつながった。
ところが「解説」を担当せよと命ぜられ、身に余る光栄ながら、浅学非才、蟷螂の斧であって、刊行はよいとしても、「解説」の方は、つい簡単にお引き受けしてから深く後悔した。従って、責任逃れをするつもりはないものの、内容については、百闊齠ヌにしかずでもあり、読者諸賢に評価をおまかせするとして、私は、枯木も山の賑わい程度のお飾りでもってこの重責を糊塗する無責任さとご無礼をご寛怒頂きたい。
水野睦郎(ミズノムツオ)先生は、昭和5年6月1日の東京・本郷生まれ、合名会社水野重善商店(昭和61年から合名会社水野に改称)の三代目である。昭和25年に第一高等学校理科乙類(旧制)を卒業、同29年に東京薬科大学薬学科を卒業、直ちに家業の水野薬局に勤務、昭和31年には早くも若き俊才を嘱望されて東京都薬剤師協会理事、同33年4月からは日本薬剤師協会理事、同38年には常務理事を務めておられる。
望月正作、浜田直松(故人)、芹沢恒夫、秋葉保次の各氏らと共に青年行動隊の知恵袋として活躍、昭和30年から同40年にかけての10年間は、水野先生にとって暗中模索の時代であったとも言える。私が水野先生を知ったのもこの時代だったが、しかし、水野先生の力量に注目したのは、もちろん昭和40年10月の水野調剤薬局開設の時からである。
その時代的背景を見ると、昭和31年からの医薬分業制度の条件付実施、同5月のペニシリンショック死事件発生、同32年3月の初診料・入院料の自己負担導入、同35年8月の新薬事法・薬剤師法の公布、同年9月のカラ-テレビ放送開始(NHKテレビ放送開始は昭和28年2月)、同36年4月1日からの国民皆保険実施、同38年11月22日のケネディ大統領暗殺事件、この頃からのサリドマイド事件表面化、昭和39年10月からの東海道新幹線開通とオリンピック東京大会開始、同40年2月のアンプル入かぜ薬ショック事件発生などがあり、この間、池袋対抗乱売事件も発生しているなど、まさしく激動の時代であって、水野調剤薬局の開設とその内容の方向づけは、水野先生が薬学生時代から培った外国文献による薬学および薬剤師としての教養が、この時代的背景と緊密に相呼応し、化学的反応を起こした結果、時代の動きと共に固まって来たのだと私は観察している。
当時、水野調剤薬局構想は「新幹線理論」という異称を冠せられ、武見太郎日医会長(故人)は高く評価しておられた。周辺の保険薬局からは、適正配置を盾として、大いにひんしゅくを買い、開局が予定より1年遅れるという苦汁も味ったが、しかし、これこそ水野理論が「10年先を見る」という先覚者としての先見性に富んでいたことへの賞賛そのものであり、その証明であった。
「新幹線理論」というのは、新幹線がまず発展することによって、列島改造も進み地方も発展するという解釈であり、モデル薬局がオルガナイザ-となって、医薬分業を推進する使命を果たすという考え方である。事実、「水野調剤薬局の歴史は、日本の医薬分業の歴史である」と秋葉保次日本薬剤師会常務理事も極言しておられる。その故に、水野調剤薬局の責任は甚だ重い。
昭和40年末、水野調剤薬局開設と同時に株式会社マイズを発足させ、製薬部門にも足を突っこんだが、こちらの方はまだ実を結んでいない。翌41年から東京薬科大学の監事、常務理事などを歴任、同45年11月には同大理事長に就任し、同51年4月退任まで、東京薬科大学キャンパスの八王子移転という大事業を物の見事にやってのけた。調剤薬局という箱作りの10年に続き「薬学教育の入れ物に取組んだ10年だった」と水野先生は述懐しておられるが、並大抵の苦労ではなかったものの、いとも簡単にやりとげたところに水野先生の政治家的力量と大事業家としての片鱗を見ることができる。
「入れ物作っただけで、その後の運営は投げ出した」と悪口を叩く人もいるが、これは誤解であって、水野先生はクリエ-トの段階でこそ天才的な力量を発揮するタイプ、維持運営は、どちらかといえば得手ではない。絶えず開拓し、実験し、クリエ-トして生きる性格的特性の持主なのである。
東京薬科大学理事長退任後の10年間は、「情報の入れ物作り」である。(APO-S)を開発し、コンピュ-タの並ぶ本部(ミ-ティングル-ム)を中枢神経として文京区エリアに、@たつおかAねずBにしすが、などの分局を続々と開設、(APO-S)の地域展開的実践に乗り出した。
E.メルク社はかつて世界の有名薬局紹介を兼ねたカレンダ-を製作したことがあったが、日本を代表して堂々と水野調剤薬局が選ばれている。アメリカ代表はニュ-ヨ-クの「レオン・ラスコフ&サン」、オ-ストラリアは「ジョン・ワトソン」西独なら「モ-レン」、スイスは「ファルケン」といった歴史のある豪壮な大薬局が並んでいる。しかし、情報管理に関しては水野調剤薬局に並ぶ薬局は世界広しといえどもどこにもないと信じている。
とくに昭和60年1月開設の「にしすが水野調剤薬局」は、正に名実ともに世界一の設備と内容を誇りうるものであろう。
この間、厚生省の薬効問題懇談会委員、医薬品流通対策研究会委員、薬事審議会臨時委員としてその発言は常に注目を集め、また昭和45年から6年間、北里大学薬学部や東京薬科大学の講師も務められた。現実は厚生省薬事審議会臨時委員のほか、日本アイソト-プ協会理事および東京薬科大学顧問、日本薬剤師会国際委員会委員の要職にある。
著書としては、I「欧州の薬剤師と薬局-薬剤供給制度の今日課題-」(昭和45年・薬事時報社刊)A古泉秀夫氏との共著「調剤実務必携-その基本と取組み方」(昭和54年・薬事時報社刊)がある。
なお、「ヨ-ロッパの北の果て」にも登場する寿美子夫人が、衆議院議員故野沢清人氏の長女であることは衆知の通りだが、「調剤薬局20年」の水野先生の歩みを支えて来たのは夫人の大いなる内助の功であったことを付言特筆し、水野先生のこれからの更なる10年、20年の活躍を期待してこの稿の責めを果たしたことにしたい。
(昭和62年1月記)
(株式会社 ビュ-ポイント 代表取締役) |
|