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同窓生交歓(4,1,5)
――社会への貢献面からいくと東薬の行き方にも意味が・・――
出席者:河野賢一(第一化学薬品株式会社社長)福神邦雄(福神株式会社社長)水野陸郎(水野調剤薬局)松井寿一(司会・薬業時報社編集局長)
司会 本日は、私どもの企画のためにお運びいただきましてありがとうございます。シリ-ズで「同窓生交歓」というのを特集号ごとにやっており、今回は東京薬科大学の巻です。それぞれ学校で学ばれた時期は違っていらっしゃるわけですが、それなりに話がふくらんでよろしいんじゃないかと思いまして、お集まりいただいたわけです。よろしくお願いいたします。肩のこらない話をざっくばらんにやっていただけたらというのが趣旨でございますので、お三方で縦横にやっていただいて結構でございます。
お三方に、順番に、こういう時代だったということをお話しいただいて、その後はもうざっくばらんにいろいろなことを思い出していただきながら、お話ししていただきたいと思います。
「パパちゃん、パパちゃん」
河野 私は昭和10年卒業です。
司会 そのころ、学校の名前は何て言っていたのですか。
河野 東京薬学専門学校です。あのころは男子部と女子部に分かれていて、男子部は柏木で、女子部は上野。実は、今日偶然水野さんにお会いすることになりましたが、僕らのクラスに水野忠二さんという方がおられた。東大の法学部を出られてから、東薬に入られた。とにかくわれわれ若造とは違っていた。年も少し多かったし、背が高くて立派だし、柔道も強かったし、ひげも濃かった。今、考えてみますと、この水野さんのお父さんだったわけ(笑)。お母さんはお茶の水を出られた方で、この水野さんは、そのころの身長はこの机よりも低いくらいだった(笑)。
水野 入学されたのは昭和7年ですね。そのころは、僕はまだ2歳か3歳です。大変な話から始まっちゃったな(笑)。
河野 こっちがいかに年寄りだかということがわかりますが、福神さんはまだ生まれていなかったわけですね。
福神 そうですね・・。
水野 そのころ校舎は、東中野の方から入っておりましたか、それとも終戦後のように大久保寄りに門があったのですか。
河野 もちろん東中野の方から段を上がって、ちょっとした運動場、テニスコ-トなんかがあって、正面からですね。しかし大勢は、大久保の方から通う人が多かった。裏からですね。
水野 何か正門を入ると、薬草園があったとか聞きましたが・・。
河野 ええ、ちょっとした薬草園が左側にありました。右側にテニスコ-トがありました。
司会 水野先生が卒業されたのは何年ですか。
水野 昭和29年です。今お話がありましたように、私のところは親子三代お世話になっているんですが、まともに入って、まともに出たのは人一人もいないんです。
河野 あなたのおじいさんは、やはり立派な方で、水野薬局をおやりになって、東薬にも来ておられました、紋付き羽釜織で。
水野 祖父の善重はその前に名古屋薬学に一応入ったようです。それから東薬に来て、まだ生年に達していなかったので、薬剤師免許がいだだけないということがあったらしくて、それで何か応援団みたいになりまして・・(笑)。
河野 僕は、先輩だとばかり思っていましたが・・。
水野 かなり一緒に勉強された方はあるみたいです。おやじ(忠二)は河野社長と一緒に入りまして、いわゆる査閲とかいうのがあった日かに発病して、3年のときですか、それで結局卒業しないで死んでしまいました。
河野 私が入ったのは、旧制高校卒業生ということで、2年に編入していただきました。ですから卒業はいたしましたけれども、親子三代、何だかよくわからないということで・・。
河野 しかしとにかくみんな東薬とご関係がある。おじいさんは、理事か何かしておられたんじゃないですか。羽織袴で来ておられたのを知っています。
水野 恰好をつけていたのかな(笑)。
河野 それからあなたが「パパちゃん、パパちゃん」と言っておった声が、まだ耳に残っておる。(笑)
水野 今日は困ったことになった(笑)。まいったなあ。
司会 福神社長は、卒業は何年ですか。
福神 昭和41年卒業です。私は、水野先生の薬局経営論の講義を拝聴させていただきまして、世の中には偉い方がいらっしゃるなあと思いました。
水野 汗が出てきちゃった。
福神 お亡くなりになりましたけれども、山田益城先生の新薬論、大学以外でご活躍されている先生方のお話、その後、学校を出てみると、民間の方でこんな立派な方に教えていただけたのかなと、後でわかったような次第で・・。
司会 水野先生や福神社長は、お父さんがお薬の方をやっていらっしゃったのでわかるんですが、河野社長の場合は、薬学を志されたのはどういう動機からなんでしょうか。
河野 やはり薬には関係があるんです。全くの百姓というわけでもなくて、僕のおやじだの、おじなどは、牛馬の獣医だったんです。そんな関係で、自然に薬に近づいたということでしょう。
本を開くと先生の“給料袋"が
司会 東薬とのご縁はどういうことだったんですか。他にもいろいろ学校があったわけでしょ。
河野 まあ東京にはここがあるからということで・・。
水野 そのころは1クラス何人ぐらいだったんですか。
河野 140〜150人じゃなかったかな。200人はいなかったと思います。はっきりしませんが・・。
水野 3年でございましたね。
河野 ええ。
水野 われわれが入ったときには、かなり古い先生がいらっしゃいました。たとえば鴨志田(儀作)先生とか、学生課に・・。
河野 それから伊藤辰治先生だの、永松元一とか、角倉一先生、鈴木美智雄先生・・。
水野 石渡三郎先生とか・・。
河野 石渡先生からは、私らは習わなかったが、おられました。
水野 永松先生は、昔は大変厳しかったという伝説があったわけですが、われわれのころには、怖かったですけれども、むしろやさしい先生でしたね。
河野 そう、心はやさしい先生でした。五高を出て、東大の薬学で、左ぎっちょで、テニスをやっておられましたし、柔道もやられたんじゃないかな。九州の人です。ちょっとごつく見えるけれども、とてもやさしい先生でした。
水野 ある日、永松先生のところへ行って、いろいろお話を伺っていたら、そこの本に書いてあるから、ちゃんと勉強してこいっていうことで、かなり厚い本を貸して下さったんです。その本を部屋に持って帰って、ヒョイと開いたら、先月分の給料袋が出てきたんです。永松元一殿と書いてあって、封が切ってないんです(笑)。僕はびっくりしちゃって、先生が読めっておっしゃったところを読むわけにいかないんです。もうドキドキしちゃって(笑)。そのころはまだ千円札がありませんから、百円札ですので、かなり厚いんです。本当にどぎもを抜かれて、あわてて、本を閉じて、そのまま1時間ぐらい時間をおいて、それからおもむろに先生のところへ行って、ありがとうございましたって、パッと本だなに入れて、逃げて帰ってきたことがあります。豪快と言いますか、そういうことがありました。あのころは、戦後でみんな苦しい時期だったと思うんですが、どういうことだったんでしょうかね。
河野 神経が太いようで細かいやさしい方でしたね。東中野の駅の階段を降りていったところにミモザという喫茶店があったんですが、当時東薬で浴衣を売り出しまして、それを着ていれば東薬の生徒だとわかるわけです。それを着て、ミモザにおったら、永松先生は少しごきげんだったんでしょうか、後から来られて、階段の降り口に立って、上のところに手をかけながら、「イッツアロングウェイ・・」なんてうたわれていて、こっちは出るに出られず・・。出ようとすれば、先生の袖の下をもぐって出なきゃならないので、往生したことがあります(笑)。とにかく先生はユ-モラスなところがありました。
授業は、よくわかるようになさいましたし、それから人生について、とにかくまじめにやれとか、それとなくよく勉強しなきゃだめだぞとか、そういうことを交えながら、授業をやってくれました。それから先生の講義がよかったんだなと思ったのは、国家試験がその前あたりからあって、先生に補習をしてもらったんですが、あの時だけは、私だって90点以上取っただろうと思う(笑)。みんなほとんど取れたような気がします。
水野 ある日、授業の時に、先生は「おれは、秀才とか、よくできるやつを相手に授業をしない。できないやつをできるようにするのが、おれの役目だ」とおっしゃいまして、ジロッとにらむわけ。いかにも僕のことをにらんでいるような気がして・・(笑)。とにかくそういうことをはっきりおっしゃりながら授業をされましたね。
河野 そうかと言って、コラッて怒られた人はいないんじゃないかな。授業のときは別ですが、それ以外のときは友達みたいだった。
司会 学長の村山(義温)先生は、何か教えていらっしゃったんですか。
河野 村山先生は、終戦後にみえられたので、存じ上げません。
水野 われわれの時は、あんまり出なかったから記憶が定かではありませんが、薬学史とか、科学史とか、そういうことを講義されました。
福神 私どもの時も、何か講義があったように覚えています。
「いいか、こうするんだぞ」とか。
司会 福神さんのころは、学生は何人ぐらいおりましたか。
福神 卒業時点では少し減って120〜130人でしたが、入学時はやはり140〜150人ぐらいおりました。
水野 ちょうどそのころから衛生薬学科ができたりしたんですね。
福神 私どもの2つ下ぐらいからです。
水野 またそのころ大学院ができたり、いろいろしたんですね。
河野社長のころには、われわれの知らない教練だとか、あったわけですね。
河野 教練なんかは盛んなものでした。特に印象深いのは、永田鉄山という第一旅団長の査閲で、永田さんは陸軍省の軍務局長の時に相沢中佐に刺されましたが、非常に頭のいい方だったようです。当時は「査閲」といいまして、学生の軍事演習ぶりを見るわけです。そのころの学生は、みんな生まじめで、一生懸命やりまして、永田査閲官の評は、君達の訓練の成果を見ると、何も言うことはない。われわれ軍人がもっと反省しなければならないというようなことだった。
水野 そうしますと、あのころの言葉で言うと、「極めて優秀」とか何とかという評価になるんですね。
河野 そう、そういう簡単な評でした。
福神 鴨志田先生も、軍事教練をやっておられたんですか。
河野 そうです。鴨志田先生は、たたき上げた准尉さんですから・・。もう少尉になっておったかもしれません。演習や何かの補助教官ですね。配属将校として現役の中佐が来ておられましたから・・。鴨志田先生は、要点をよく教えてくれるんです。肩肘張ってやるんではなしに、普通の言葉で柔らかく、「いいか、こうするんだぞ」とか、こんこんと教えてくれて、「サア、攻撃に行こう」ということで・・。鴨志田先生で印象深いのは、あるとき夜間演習で、夜襲攻撃することになって、ちょっとみんなここへ集まれ、と集めて、こういうふうにして、ここを気をつけろということで、攻撃に移った。先生の言われる通りにやったら、相手方は、僕らが行って突っ込むまで知らなかったということでありました。先生の教え方が、壇上から教えるんではなしに、いいか、こうするんだぞ、こうすれば、こうなるんだから、この通りにやってみろっというような調子なんです。
水野 それは富士とか習志野へ行くわけですね。
河野 そうです。よく引っ張り出されて、ノミに食われながらやったものです。富士の裾野とか習志野の演習場でやりました。
水野 われわれのころの鴨志田さんは、松本錫次郎さんという方とお二人で学生課におられまして、僕なんかは余り出席がよくないものですから、むしろ怖かったですよ。
河野 伊藤辰治先生はおられましたか。
水野 われわれのころには、もういらっしゃらなかったようです。
河野 あの方も少尉で、非常に人間味のある方でした。
福神 僕らの時も、鴨志田先生が学生課で、僕なんかもごまをすってた方です(笑)。
水野 僕は、学生時代にあんまり学校に行かなかったものですから、後で学校の経営をお手伝いするようになりましてから、角倉さんに言われたんでじゃないかな。やっぱり世の中はよくしたものだなあって、学校時代にサボッたやつは、いつかは来なきゃならなくなるんだから、と(笑)。
司会 昔は上野に女子部があったんですか。
水野 昭和4年か5年に、上野の前の校舎なんですね。池口慶三先生が大変ご尽力なされて、お作りになったようですね。
河野 上野から柏木に移った時の最上級生は、野沢清人さん達じゃなかったかな。学生時代、何かというと野沢さんが来てくれました。弁論部の先輩でもあって、私は学生時代から存じ上げておりました。ストライキだというと、来ますし・・。
一応ストライキもやったことが
司会 ストライキなんかおやりになったんですか。
河野 こんなことを言っちゃ何だけれども、一応やったことがあるんです。
水野 一応ですか(笑)。その原因と言うか、どんなきっかけからやったんですか。
河野 簡単に言えば、池口先生が亡くなられて、後に上野金太郎先生がなられて・・。池口先生が亡くなられた後、別にだれにどうということもなかったけれども・・。それから有賀孝冶先生という方が、日赤の薬局長をされながら調剤の講義をしておりましたが、その方が突然代わられたとか・・。それから私が2年の時、3年生が修学旅行で九州に行き、耶馬渓で、乗っていた車が谷底に落っこっちゃって負傷者が出て、予定をそのまま続けるわけにもいかず、1日かそこら遅れたんじゃないでしょうか。その処理の仕方とか・・、何かいろいろなことが重なりまして・・。
水野 もやもやしていたんですね。
河野 そう。あのときは3年、2年のクラス委員が引っ張ったわけですね。今考えてみると、何、思想的なものはなかったんです。講堂にそれこそ全校生徒が集まって、演説をする人があったりして、それで別に休講したとか何とかということはなかった。あのころ理事長が大口喜六さん、常務理事が藤永(義之)さん・・。
水野 藤永(善作)さんのお父様ですね。
河野 上野先生は心臓が悪くて寝たっきりで・・。決議文というのか、こういうふうにしてもらいたいというのを、持って歩いたけれども、上野先生は寝ておられるし、どこへ持っていっていいのか分からないわけ(笑)。結局、理事長のところへ行こうと、大口先生のところまで行きましたら、座敷へ上げられて、君達は、どういう覚悟で来たんだというようなことで、相当きつい態度だったんですが、しかし、このことについては藤永先生と話し合いをしなさいと。それで結局は、こういうふうにという結論が出まして、それで収まったわけです。まあ休みはしなかったけれども、自分達だけで全校生徒が行動に集まって、そんなことをしたものですから、配属将校はびっくりして、憲兵隊に電話するやら何するで・・。東薬卒業の先生方もおられて、鈴木美智雄先生とか、そういう先生達は、思想的には非常にうるさい時代だったですから、犠牲者が出やせんかと心配された。今考えてみれば、何だかとりとめがないようなことですけれども、そのころは真剣になって、何日か寄り寄り相談しました。最後のときは池口先生の四十九日だったか、一周忌だったか、法事に名を借りて、菩提寺に集まって、こういう段取りで、ひとつ生徒大会をやろうとか・・、そんなこと覚えています。こんなことは、学生達に言っちゃ悪いだろうけれども・・(笑)。
水野 その後、かなりひどいこともありましたから、もう時効なんじゃないですか(笑)。福神さんの時には何かありましたか。
福神 私の時には、安保騒動その他も一段落して、少し落ち着いた時だと思います。余りそういったことはありませんでした。
水野 昭和43年ぐらいに火がつく、その中間だったわけですね。
福神 そうです。私どもの後に、また学生問題が全国的にいろいろあったようですが・・。
司会 柏木の校舎へは東中野からも、大久保からも行けるわけですね。距離的にはどっちの方が近いんですか。
河野 市内から行く人は大久保でしょうね。それから中野の方に住んでいる人は東中野でしょう。大体大久保の方が多かったように思います。裏門の方の出入りが、非常に多かったと思います。
水野 今ではちょっと想像がつかないんですが、われわれのころでも、学校へ行く間にまだ麦畑が随分ありました。福神さんのころには、そんな風景じゃなかったでしょうね。
福神 ええ。
水野 街の中から通うと、随分田舎だなあという感じがしました。
河野 そうでしょうな。本郷の方から来られると、そうだったでしょう。
福神 駅のそばに三福会館がありましたね。あれ、今はもうないんです。
水野 今は、海洋何とか会館で、それこそ笹川良一さんが肩入れして・・。
司会 結婚式場のはしりみたいなもので、大塚の角万と大久保の三福会館というのは有名だったです。
福神 僕らの時には随分にぎわっていて、どっちかと言うと大衆的なところですから、僕ら学生でも、地下の食堂に食事しに行ったり、それからガ-ド下にビヤホ-ルみたいなのがあって、先輩方も行ったらしいですが・・。
水野 「もりなが」でしたかね。
河野 そうそう、お菓子屋さんの喫茶店があって、あそこへも毎日のように・・(笑).特にあそこは常連がいたな。
水野 福神さんは、学生時代はまじめだったの。
福神 あんまり学生運動みたいなことはしませんでしたけれども、クラブは4つぐらい入っていまして、一番よくやっていましたのは卓球で、ですから比較的時間がなかったかもしれません。
“青い灯、紅い灯"もないところ・・
水野 実習の暇なときは何をやっていたの。
福神 ときどき先輩に誘われて、これ(麻雀の手つきをする)の方のお相手もしたことがあります。
河野 僕らのときは玉突き・・。
水野 玉突は随分と、はやっていたんでしょ。
河野 ええ、はやっていました。でも、みんなまじめにやっていましたよ。東薬の学生は、みんなまじめに勉強するんです。まあおとなしい学校で、おとなしい生徒ですよ。
福神 僕らのような理科系というのは、暇が比較的少ないんじゃないですか。
河野 そう、暇がなかった。実習は、ほとんど午後全部ですから・・。これは、もうやらなきゃしようがないものだから・・。だからまじめでしたね。今でもそうだと思う。今はますます立派になった(笑)。
水野 “青い灯、紅い灯"のないところへいっちゃいましたから・・(笑)。
河野 水野さん、おかげさんであんな立派な校舎を造っていただいて、あれは末代まで残る大きな業績ですね。
水野 あれがやれたというのは、基本的には柏木の土地があったからやれたんで・・。
河野 それをうまく運用されたというところもよかったわけです。
水野 あの土地がなかったら、とてもできませんでした。ですから、あのころにうまい土地を確保されたということが大変よかったわけですね。
河野 単科大学で、あんな立派なキャンパスがあるというのは、世界じゅうでそうないんじゃないかな。
福神 女子部・男子部が分かれているというのも、すごくいいんじゃないでしょうか。大体において女子の方ができがよくて、もしも一緒ですと、もう8割以上が女性に占領されちゃうらしいんです、「お勉強」の順でいくと。ですからそうなったら、私も入れたかどうか・・(笑)。
河野 男女共学の国立なんかは、女子学生が多くて、7割以上でしょう。そうすると大抵、お嫁さん道具になる分が多いでしょう。社会に対する貢献という面からいくと、東薬の行き方も意味があるかもしれませんね。
水野 女子と比較されないだけでも、男子の自尊心を損なわない(笑)。
僕が昭和26年に入った時はびっくりしました。もう本当に汚くて・・、周囲は焼け跡だったし・・、東薬・明薬と言えばかなり有名なのに、本当に講習会場みたいな感じでした。その時の哀しさというものでしょうか、後にあんなところじゃ、いい薬剤師さんはできないんじゃないかというところで、校舎の移転ということになるんでしょうが・・。本当に僕はびっくりしました。汚くて。先生方はきれいに使っていらっしゃるんですが、どうしようもないんですね。何か焼けたときに、付近の人々とか、お役所が入っていたんだそうです。それでかなり荒れちゃったんです。
河野 私立というのは、金がふんだんにあるわけでもないし、つらいところがあったと思う。今の新校舎は、国立でもないような立派なものです。
水野 まあ校舎は汚かったんですが、けっこう精神的には、皆豊かだったんじゃないかと思うんです。
河野 生徒がおとなしくて、皆よく勉強するというのも、やはり先生のせいですな。みんないい先生がおられましたから・・。社会へ出られた方々も、みんなしっかりやっておられますからね。
水野 薬からあんまり離れたところへは行かない・・。まあ女性の方はいろいろなんでしょうが、男子の方は、割合まともに薬の世界にいるみたいです。
河野 やはり本分としてやっているんでしょう。そういう点においては、やはり学校はありがたいものだと思います。
東薬出は商売下手くそと・・
福神 その当時聞いておりましたのは、一般的に東薬卒業の人は、どうも商売が下手くそなのが多いと。じゃあお勉強で身を立てているかと言うと、そういう方も中にはいらっしゃいますが、それはあんまりマジョリティでもないし、勉強も中途半端で、商売も中途半端になっちゃう(笑)。
河野 割合と勉強する方が多いですね。
水野 あんまりアカデミックな雰囲気だと思わないけれども、けっこうまじめですね。
河野 昔からそうです。
司会 校風と言いますか、伝統と言いますか、そういうものがあるんですね。
河野 いわゆる善良なんだな(笑)。
水野 僕なんか、いまだに東薬卒業だなんて思ってくれていない人がいるところを見ると、小生はよっぽど善良じゃないのだと思うんですが・・(笑)。今でも聞かれるんですよ。「どこを出たんですか」って。困っちゃうんだ(笑)。福神さんは、そう言われませんか。
福神 あんまり言われませんです。
水野 商売がうま過ぎるから・・(笑)。
河野 水野さんと言い、福神さんと言い、この道では本当に立派はものです。これは私、常々関心しております。大いに期待しております。
水野 福神さんは商売がうま過ぎて、東薬の出身とは思われない(笑)。
河野 近ごろはこういう方々が出るようになってきたんですよ。われわれのころは、みんなそれこそおとなしかったから・・。
水野 河野社長もおとなしい方なのかな(笑)。
河野 よく発展してきたと思っております。
司会 先ほどなつかしい先生のお名前がいろいろ出てまいりましたが、それぞれの世代での友人ですけれども、同級生に限らず、何年先輩にこういう人がいて、今はどうしているといったお話が何かございましたら、ぜひお話しいただけたらと思うんですが・・。
水野 それなら同窓会名簿を持ってくればよかった(笑)。それこそ、今年で100年ですから、大変古い歴史があるので、本当に探せばいくらでもいらっしゃると思います。やはり歴史の重みというものがあるんでしょう。
福神 本当におかげさまで同窓の先輩が非常に大勢おられまして、主として薬業界でご活躍していらっしゃるので、何かにつけて本当にありがたいですね。
警察病院の古川正先生には、お得意先でもございますので・・、東薬の評議員会の議長をなさっておいでですね。そっちの方のお立場から東薬の話をいろいろ伺っております。先輩としては、最高の先輩格じゃないんでしょうか。
司会 大日本製薬の小幡昌利さんも、東薬のいろいろな行事によくお出になっていらっしゃいますね。
水野 理事をやっておられます。
東薬は大変まじめだということですが、裏返すと、欠点とも言える性格というのは、あの3年か4年の間に、いい性格もできるし、ちょっと問題な性格もできてくるんじゃないかと思っているんです。たとえばきまじめ過ぎると、今度は反対にウィットがなくなるとか、親しみがなくなるとか・・。
河野 覇気がもっと欲しいとか・・、おっしゃるとおりですね。
福神 文科系と理科系の差みたいなのを、実社会に出てからフィ-リングの差みたいなものを感じることがございませんか。そういう意味では、典型的な理科系の環境にあるんではないでしょうか。
水野 そうすると教育というのは大変なものですね、たった3年か4年ぐらいで、そういう感じがすっかり身についちゃうというのは。
河野 大体一生を支配するようなことにつながっていくわけですから、これは本当に大事なことだと思います。
かなり暴れん坊も多かった
水野 われわれの仲間は、かなり暴れん坊が多いんです。それこそ地方の問屋さんなんかの親玉になって暴れているのが何人かいます。
河野 地方から来ておった学生なんかに、地方へ帰ってしっかりやっている人も多いですね。
福神 水野先生の年代層の時は、病院薬局志望の方が多かったですか。
水野 僕は勤めなかったですけれども、われわれのころは初任給が、大体6500円とか、7000円、いいところで8000円という時代で、殊にお役人と病院は余り給与がよくなかったので、むしろ製薬会社などに行きたかったのではないでしょうか。けれども病院の薬局長になっているのが、けっこうおりますね。福神さんのころには、初任給はどのくらいだったんですか。
福神 2万か3万ぐらいの金額だったように覚えております。
水野 戦前は幾ら位でしたか。
河野 私が入った時は、日給にして1円70銭だったかな。月給で50円ぐらいです。大体そんな相場でした。
水野 月謝は幾らだったかなあと思い出そうとしているんですが、もう忘れちゃって思い出せないんですが・・。
司会 福神さんのお友達は、やはり薬局の子弟の方が多かったのですか。
福神 そうですね。やはり薬局の師弟が多くて・・。それから製薬会社に勤めた人が多くて、比較的病院勤めは少ないです。いることはいますが・・。あとは1割ぐらいでしょうか、大学院に進んだ者も何人かおります。私達のころは、やはり、製薬会社あたりへの就職というのが、ある意味では皆さんのご希望が多かったんじゃないでしょうか。最近は病院薬剤師へのご希望が多いそうですね。
水野 それこそ病院薬局というのは、東薬の人が多かったんじゃないでしょうか。
河野 病院とか官庁、警察庁とかああいうところの試験室・・。それから東大の選科なんかにも多かったです。
水野 話は飛びますが、永松先生などは大変お酒がお好きで、新宿とかいろいろなところに行っておられましたが、そんなおつき合いはされましたか。
河野 学生時代は、そんなおつき合いは、とてもしませんでしたが、私らの上級生あたりではあったかもしれません。私は、永松先生とは、さっきお話しした1回しかありません。とにかく永松先生は、天衣無縫と言いますか、しかしある面朴訥で・・。先生からごちそうになった連中は、相当あるんじゃないですか。
水野 われわれのころは、それこそ永松先生も飲んでおられたし、また角倉先生も、戦前は全くお飲みにならなかったんだそうですが・・。
「今見ないと役に立たない」
河野 角倉先生があんなに飲むようになったというのは、戦後知りました。
水野 大変お飲みになりまして、新宿あたりから、夜担いで帰ったり・・(笑)。まあ、担いで帰ると言うと、ちょっと語弊がありますけれども、とにかく、だれかが先生のかばんを持って、まただれかが先生の帽子を持って・・。あれだけ先生は飲んでいるから、多分翌日は休講になるんではないかという、はかない期待を持って学校へ行くと、ちゃんと先生が講義しているんで、こっちはがっかりしちゃって・・、(笑)何か損したような気持ちになった。後で、よく講義ができますねと言うと、うん、少しアルコ-ルが入った方がうまくいくんじゃないかななんて・・(笑)。さすがに、講義の時はお飲みになりませんでした。夕方になると、研究室の戸だなの中にウイスキ-が入っていて、けじめをつけておられましたね。5時にならないと飲まないです。5時過ぎますと、オイ茶碗とおしゃるので、茶碗を持っていきますと、1人でボコッボコッと注いで、又しまっちゃうんです。僕らは立って見ていますと、お前も飲みたいかって・・、(笑)少しおすそ分けをいただいて、ニコニコしていたこともありました。それで少したってから、帰るよとおっしゃって帰られるわけですが、われわれが残って実験か何かやって、その後新宿あたりを歩いていると、バッタリぶつかったりしました。あのころの歌舞伎町は、それこそ今みたいに繁華街ではありませんで、菜の花が咲いているような空き地があったりしたんですが・・。
司会 福神さんなんかも、新宿へ出ていかれえましたか。
福神 大体新宿まで行かないで、大久保のガ-ド下あたりで飲んだりすることが多かったです。ドイツ語の鈴木為雄先生という方、ご存じでいらっしゃいますか。私、よくかわいがっていただいて、もうしょっちゅうご自宅に伺って、いろいろとお話を伺ったりしましたが、昔は随分怖い先生だったそうですね。私のころは、もうお年でもありましたし、すっかりいい意味で角がとれて、何しても怒らない、やさしい先生でしたが、その一方で僕らみたいな若造とも気持ちをよく合わせていただける、遊び友達と言っては語弊がありますけれども、一緒になって楽しませていただきました。
水野 改めて鈴木為雄先生なんて言うより、鈴木のタメさんとかそういうふうに言わないと、ピンとこない。(笑)
河野 随分長いことドイツ語を教えていただきましたね。
水野 ついこの間までやっておられたんではないですか。
福神 石渡先生に教わったことがございますか。
水野 大変怖い先生だった。僕はいくら勉強してもだめだった(笑)。
福神 石渡先生には随分とご指導いただきました。ヘッヘッヘ・・。
水野 そのヘッヘッヘというのは、どういうこと。
福神 試験でカンニングしたやつがいるんです。なかなか度胸のいいやつで『カンニングペ-パ-なんか見ちゃいかんぞ』と言われたら、『先生、今見ないと役に立たないですよ』って・・(笑)とか、試験で及第にならなかったやつに、『君は幾つだ』、『4つとか5つ』と言うと、『そうか君はなかなか成績がいいんだなあ』って・・(笑)。けっこうユ-モアがありましたけれども、試験には厳しい先生で、随分落とされたんではないですか。
司会 最後に、水野先生などを中心に努力されて、すばらしいキャンパスができているわけですが、今そこに学んでいる後輩の方々に対して、何か一言ずつ、自分の青春時代を踏まえていただいてお話しいただけませんか。
河野 ああいう恵まれた環境にあるし、まあまじめに取っ組んでもらいたいということですな。
水野 まぁ先輩があんまりいろいろなことを言わない方がいいかもしれませんが、(笑)われわれのころにはドイツ語の歌を歌っていましたが、「会議は踊る」の主題歌でしたか。「ダス イスト ヌ-ル アインマル」、人生は一遍しかないということを学生時代からかなり気にして、やれることは、そのときにどんどんやっておくと、さっきから話に出ていますが、ちょっとおとなし過ぎる感じがするんですね。貴重な人生なんですから、学生時代に思う存分『何か』をやってもらいたい。やれるような環境にあると思うんです。先生方もいいし、施設も、小生としては一生懸命作ったつもりですから・・。やはり「ダス コムト ニヒト ビ-ダ-」、チャンスは2度とは来ないんですから・・。
ほしい薬大を出たという「もの」
司会 「花咲け薬学」というのもドイツ語になっているんですか。
水野 ラテン語でしょうね。(flore pharmacia)このごろはバッジを付けてないし、帽子もかぶっていないし・・。河野さんのころは、みんな帽子をかぶっていたんでしょう。
河野 ええ、みんな制服、制帽です。
司会 福神さんのころは、もう着ている物とか、姿、形というのは自由だったわけです、か。
福神 東薬というのは本当にまじめなんですね。私のころは、やっぱりみんな学生服を着ていました。1年なり2年ぐらいのところでは、過半数が学生服を着ておりましたがそのうちセ-タ-だけだとか、上級になるとブレザ-コ-トなんかを着ていました。最近はどうかしりませんが、ジ-パンだとかそんなものはなかったです。
司会 福神さんも一言、後輩に対して何かありませんか。
福神 私どもとおつき合いございますのは、薬のメ-カ-のプロパ-さんだとか、そういった方なんですが、文科系の方も大変優秀な方が大勢いらっしゃるんで、自分は薬大を出たんだという「もの」を何か持っていないと、文科系の方との、いい意味での特徴がなくなってしまう危険があるわけです。勉強ばっかりする必要もないとは思うんですが、文科系じゃなくて薬大を出たんだというものを何か持って、社会に出られるように・・。私はできていないものですから、つくづくそう思っております。
司会 今日はお忙しいところをどうもありがとうございました。これで終わらせていただきます。 |
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