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解説 世界一の開局薬剤師
新しい校地を求めて(4,1,2)
とうやく(東薬会雑誌)八王子キャンパス特集号
昭和49年12月号


 八王子市堀之内の新キャンパスは、昭和48年3月に東京都より土地造成に関する開発許可を受け、直ちに工事を開始しました。その経過は「とうやく」誌を通じて写真などでお知らせした通りです。既に主要部分は完成して、昭和49年7月に行われた中間検査に合格したので建築工事が進められています。
 今後、昨年暮れのような異常事態の起こらぬ限り、昭和51年1月には第1期工事が完成する予定で、新年度から新キャンパスでの教育研究の開始を目指して、目下、作業のピッチがあがっています。
 この時期に、同窓会である東薬会が八王子キャンパスの特集を企画されたことは、誠に時宜を得たもので、この機会に全学移転という、学校の歴史にそう何度もあることでない事業の、発端、構想、経緯について述べさせて頂きます。

発端
 東薬大が現在のように、薬学科に加えて製薬、衛生の2科を設けたり、大学院が新設されたのは、約10年前の昭和39年であり大学院の修士、博士課程もそれに引き続いて増設されましたが、その構想はさらに遡って昭和28年頃に胎動を見せています。(東薬会報第157、158号、東京薬科大学90年310頁〜)理事長をはじめ一部には、積極的に推進しようという気運もあったのですが、教職員も卒業生も実現を危ぶんで現状維持の空気もかなり強かったようです。
 「教育的内容は別にしても、東薬大は貧乏学校であって、大学昇格後、日も浅いために大学として、学部教育に備えねばならない施設、設備も貧弱で、その完備もほど遠い実情にあるから、背伸びして学部増設、学生数増加を考えるべきでない。ましてや大学院の設置は、時期尚早であろう。」という意見に集約される慎重論は、戦災を免れて校舎が焼け残ったものの、戦後の激しいインフレで東薬大の財政基盤が痛めつけられて、すこぶる脆弱になっていた当時としては、もっともな点もありました。しかし一方、こうした意見は、退嬰的であり、拱手傍観的立場ともいえるものです。
 社会の薬剤師に対する質的向上の要求は次第に強くなりつつあることを背景に、ねばり強い説得が続けられて、昭和33年にはやっと大学院設置調査会が発足し、分科制と大学院の実現をみるためには、さらに数年を必要としたのです。
 こうして、東薬大は大学院大学としての現在の姿が形造られていくことになるのですが、その後決して順調に推移したとはいえず、特に次の2点は問題点として挙げておかねばなりますまい。
 第1は、大学の新しい姿、施設規模などに合わせて増設が進められ、図書館、男子部3号館、女子部2号館などが続々と完成しさらに都下秋多町に土地を求めて薬草園や運動場を整備する工事が行われた結果、現在の柏木、桜木町両校にみられる不統一、混雑、非能率が顕著になると同時に、戦前よりの校舎の老朽化が進んでも、適切な対策が立てられない、秋多校地は距離があり過ぎて十分に活用し得ない、などの難点が次々と現われて来ました。
 これは、その当時としては、致し方のなかった事かもしれませんが、将来への展望の不足が大きな原因であったに違いありません。先ず基本構想を立て、十分に検討した上で実施計画を創り、それを着実に実行する態度が欠けていたことは反省せねばならない点です。
 第2に、卒業生、理事会、教職員の間で息が合わず、かなりちぐはぐなことがあった点も、率直に反省せねばならない事柄です。
 勿論、真剣に自分の置かれている立場を自覚していた人達も少なくなかったのですが、卒業生は東薬大を、薬剤師の資格を得る踏台とのみ考え、一度薬剤師となってしまった後はもう再び卒業した学校を顧みて、後輩に助言と援助を与えようとする雰囲気が少なかったといえましょう。理事会は急激に変化する社会の変化、医療の制度と規模、学問と技術の進歩、などの対応して大学を改革する意欲を持ったとしても、その構想、具体的方策に難点のあった為にか、教職員等の同意を得るのに難航を重ねたため、一時は積極的な経営意欲を失ったかにみえた時期すらあり、教職員待遇や、厚生福利面での改善が遅れる結果を生んだことは否定できません。また教職員に、長い期間、社会から隔離された環境に安住して、職務に生き甲斐、魅力、責任を感ずるよりも、現状維持の空気が醸成されていたことも事実です。
 さらに、これらの事柄が悪循環して、事態をなおさら混迷させていたのが丁度10年前の昭和30年代から40年を迎えようとした頃の東薬大であったといえましょう。しかし、建学以来80年を超える長い間に培われた伝統は、数々の問題を惹起しはするが一方ではそれを解決しようとする、力強い息吹を同時にもたらす原動力として、この場合にも新しい動きを誕生させたのです。この動きが将来計画として練られて行くのですが、その前に触れねばならない事があります。

問い直された薬学
 太平洋戦争終結の直接的な要因として大きな役割を持った核爆弾は、巨大なエネルギ-が比較的簡単に得られて、石油以降のエネルギ-として一時期期待されたにも拘らず、核爆発の平和利用が実現しなかったのは、広島と長崎の悲惨が世界を動かしたことが総てではなく、むしろそれは一つの要素であって、爆発によって生成される放射性物質による遺伝、発生への影響の深刻さを、世界中の多くの人々が認識したからに違いありません。現代の人類が、未来の人類へ悪くなる可能性の高い遺伝子を残すことは、何にも増して許されない罪悪とみなされましょう。
 このために、核エネルギ-の利用に関して厳しい管理が行われ、以前は学問の自由の立場からも、研究や実験が禁止されたり、制限されるなど思いもよらなかった事であるのに、ある分野での研究の禁止すら多くの賛成を得ています。
 このような事態は、それまで予想もされなかった事で、化学の研究、技術の開発は人類に大きな利益をもたらすものと思い込まれていたし、その悪用によって人を傷つけても、それは現代に生きる人達のみであって、少なくとも未来には無関係であったといえましょう。
 ところが、この放射能と同じに、遺伝や発生に影響を及ぼす事故が突発して、それが市販されている薬に混じっていたことで薬剤師は勿論、世界中が周章狼狽したのが、かのサリドマイド事件であったことはもう御承知の事です。
 かなり以前から、突然変異誘起物質といわれる化学物質があり、それによって生物の遺伝に影響を与えることができることは知られており、その可能性は予知されてはいましたが、生物学、生化学の進歩によって遺伝と発生のメカニズムが急速に解明されつつあった、その最中に起きたこの事件は、それこそ世界中の注目を引き、薬についての唯一の専門職業人である薬剤師の存在を根底からゆさぶったのでした。
 こうした事故が起きたのは、薬剤師の仕事への取り組みが安易に過ぎたのではないか、という批判は多くの国で提出され、薬剤師の学識、技術、社会に対する役割、責任などについて厳しい追求が行われる一方、将来市場に出される薬は勿論のこと、それまで使われていた薬についても、安全と有効を確認する作業が行われ、さらにその評価を行なう学問を体系化し、法律と行政を整備する努力が払われました。
 この動きは、他の国々と同様にわが国にも押し寄せたのですが、その対策が被害を受けた人達に集中し、それを売り出した会社と、その製造を承認した国の責任が特に取り上げられているのは、感情論的でありすぎる印象すら受けるのであって、薬を取り扱う者総てがこの事態を正しく認識しているかどうかを反省せねばならないことだと思います。
 これだけでも大変な事ですが、現在ではクリニカル・ファ-マシィとして薬学の一分野を形づくった、薬剤師の臨床面での役割を重視しようとする動きが、丁度この時期に米国で始まりました。
 私が可児前理事長と共にカリフォルニア大のメディカルセンタ-に薬学部長のダニエル氏を訪問したのは昭和37年のことで、その際に医師と薬剤師の協同作業についての話を伺ったのでしたが、ゴヤン部長に交代してからの変化は目覚ましいものがあり、それはその後まもなくの事でした。
 これらの、薬剤師、薬学を根底からゆさぶる事件に対応して、東薬大で、もし何も動きが無かったならば、むしろかえってその方が不思議ともいえる状態が、丁度その頃、「外」で起きていたのです。

振興委員会の発足
 学生と教職員の増えるに従って、活気が漲って来た柏木、桜木町両校地は、前に述べたような非能率、不統一の欠点が次々と指摘され始め、加えて、薬学教育のカリキュラムを拡充するに足りる余地の少ないことから、それでなくてもやりくりして施設を使っている実情をみて、不安を感じる人々も少なくありませんでした。
 丁度その頃、柏木校地の隣地にある国際学友会より、「条件によっては敷地を譲渡しても良い。」という話がもたらされました。歌橋理事長は早速この問題を理事会、評議会に諮ったのですが、その結果「時価に比して廉価であれば、隣地であり、財産保全の意味からも買収することが望ましい。」との意向が固められました。
 隣地であり、約9000平方メ-トル(2700坪)もの土地ならば、何故飛びついてでも買うことにしなかったのか、という疑問が生まれるのは当然で、その点について当時の検討を振り返ってみましょう。問題の第一は女子部でした。桜木町校地の狭さと校舎の老朽度は甚だしくて、とりあえずその対策が必要ですが、桜木校地の再開発(全部新しい建物に造り変える)案は、その面積が如何にも小さ過ぎて(約4000平方メ-トル、1100坪)、近い将来に、増築すら思うにまかせないという不満があります。拡大して柏木校地へ男女両学部を集中する案も検討されましたが、この場合には、図書館や機器の共通利用と、管理費の節約が行えるという、大きな利点がある反面、土地が約24000平方メ-トル(約7500坪)という面積では、「先が見えている。」ことは変りません。こうした検討が積み重ねらえて理事会の意向となったのですが、東京薬科大学90年(397頁)には、当時のありさまを次のように記録しています。「この討議の際に本学の現状についてさまざまな反省がなされた。つまり学内各所の隘路、矛盾が今後益々増大することが予想され、これに対してその場限りの解決策で臨むならば、いよいよ非能率的な傾向を助長するのみである。ここで心機一転、統一的な将来計画を立案し、理想的大学の建設を進めるべきである。というものである。」
 こうした、隣地買収の可否の検討という問題に直面して、東薬大は将来計画の立案に本腰を入れて立ち向かうことになり、昭和41年に準備の為の調査委員会を、続いて昭和42年には振興特別委員会を組織して抜本的な調査研究が始められることになったのです。この特別委員会はその後何回か組織と名称を改め、振興実施特別委員会、建設計画特別委員会、資金計画特別委員会と引き継がれていくことになります。
土地の選定
 研究面からみて、大学が大都市、特に東京に位置することは情報入手、物品購入の便宜などから望ましいといえますし、教育面からみても、私立大学という性格から、都会の内部に位置することは、学生募集の容易さ、通学の便からも好ましい点が多いことはいうまでもありません。
 ところが閑静な街に、特に公園等に隣接しているわけでもない東薬大の現校地、新宿柏木校地と、上野桜木町校地は、狭隘なこと、騒音など誠に望ましからぬ条件、環境を持つに到ってしまいました。
 前にも述べたように、大学の将来に関しては周到な基本構想を立てて着実に進めることが必須ですが、その頃から特に目立った値上がりをしていた土地については、先買の必要があるように見えました。将来計画を練り上げて、それから土地を探そうとしても、もう値上がりで買えないことも予想されます。とりあえず土地を確保しておくことが、柏木、桜木町の両校地の環境悪化対策として、緊急事であると考えられました。この方針に対して、移転を既成事実として押しつける道具となるのではないか、という危惧も一部ではありましたが、柏木校地再開発の場合にも、大きな財源となること、他の適地が見付かった場合には転売交換も出来ることなどを考慮して、かなり早期に土地探しが始められましたが、実際に良さそうな土地についての情報が入りだしたのは、暫くしてからの事でした。
 新キャンパスは、(イ)将来とも自然の緑の中で教育と研究が行われ、特に緑は校地とその周辺で将来とも確保され、(ロ)現在よりも学校規模が拡大する場合に収容できる付属設備を建設する余地をもち、(ハ)研究環境として、そんなに見劣りしない立地と、(ニ)学生、教職員の通学、通勤の便が、都会に比べて悪くなるのは致し方ないにせよ、環状線(山手線)からさほどの時間を要しない、(ホ)さらに、教育と研究施設のみでなく、学生の運動施設や、卒業生に対する生涯教育、研究の施設を設ける余地を持ち、(ヘ)且つ価格の面でも、学校法人の購入できる範囲のもの、という条件を満たす土地を物色しようというのですから簡単に見付かりません。
 茨城県の筑波学園都市の周辺に、ここの校舎をたてたら、本当に良い田園林間キャンパスに成るだろうと思われる候補地を視察したり、秋多校地の付近にも最適と思われる土地があったのですが、検討の結果、共に東京からの交通事情から選ぶことができませんでした。
 こうした、幾つかの候補地が浮かび上がり、消え去って行くうちに、現八王子キャンパスのある堀之内地区の情報がもたらされました。
 広域的な視野でみると、東京都の近い将来の発展動向からみて、旧都心が行政と経済の中心として残ることは疑いのない事ですが、文化的中心は八王子を南北に走る国道16号線を幹線として、南の多摩ニュ-タウン、北の青梅ニュ-タウンを結ぶ線に置かれるとみられます。
 現地は、新宿からの交通が一時間内外で確保されるうえ、この文化的中心に載っている地域と考えられ、国道16号線の東数キロ、南に建設されつつある多摩ニュ-タウンと、北の八王子、日野、豊田との中間点であり、この両地域を東西に緑の帯で区分する、多摩丘陵の南面に位置し、近郊緑地地帯であって、多摩自然公園の一部ででもあるため、将来とも相当広範囲に緑と自然の残される、東京西部では数少ない地域に在るころがわかって来ました。
 更に具体的にいえば、附近の多摩丘陵には帝京大学、中央大学、明星大学、多摩美大、大学ゼミナ-・ハウス、多摩自然動物公苑、多摩テック、などが丘陵に散在して居り、敷地の北は平山城址公園、西は東京農工大実験実習施設に接して居り、東は南に位置する多摩ニュ-タウン中央部から北の豊田市を結ぶ16メ-トル幹線道路が開通する計画が決められているという、東京西郊文化圏というべきものがあるとするならば、その「要」にあたる場所といえるのです。
 堀之内地区は、強いて挙げれば東京旧都心との交通が、東側16メ-トル道路開通まで不便は残る問題点はあったものの、地理的特質として、本質的な点で東薬大の要求を満たす条件を持っていると考え買収の検討に入りました。
 実際の買収に入る前に、この段階で解決しなければならなかった2点から話を進めます。第1点はこの土地が近郊緑地地帯であり、多摩自然公園の一部でもあるため、学校の校舎と、運動場の造成、建設がゆるされるかどうかです。もし校舎の建設が許されれば、われわれは将来にわたって自然の中で教育と研究ができることになるのですが、一方住民の立場、行政の立場からすれば、造成によって多少とも自然の破壊が行われることに必ずしも賛成してもらえるとは限りません。特に東京都は、過去の乱開発の反省から、自然保護に強い関心を持って居り、その成否は全く不明ではありましたが、昭和44年11月申請を提出した所、翌年4月には、自然保護を条件に美濃部知事名で申請を受理したとの通知があり、教育と研究に対する理解の深さを感謝すると共に、関係者一同勇気百倍したものでした。
 第2は、この土地が学校に適地というだけでなく、住宅地としても好適であるために、買収したい業者が数社もあり、それまでも何度か買収の交渉を地主と始めては失敗したという噂があることでした。本当に全域の買収が可能かどうかについて再三の検討の結果、重要部分に、たとえ一坪でも買収不能であれば、全部の土地が使えなくなるという危険もあるので、理事会としては、住友信託銀行不動産部を東薬大側のコンサルタントとして契約し、万全の態勢を整えてから、不動産業者に買収を依頼するという方針を立てて、その準備を進めたのです。
 買収については別に湯本常務理事が執筆されますが、案の定、かなり難航を重ねましたが、心配された買い残した虫食い地もなく、約7万坪という面積としては、不動産業者も驚く程のスピ-ドで買収ができたことは、誠に幸運であったというべきでしょう。
移転方針決定とキャンパス検討
 土地買収を進めている一方で、本当に移転するかどうかについて、慎重な検討が始められました。何分とも現行地は長年にわたって校舎を使っていた、いうなれば住み慣れた場所であるために、卒業生、教職員、学生それぞれに簡単に移転すると決められない、強い愛着を感じていたとしても、無理のないことでしょう。頭では、現在問題があり、将来ますます校地として不適当になるに違いないと理解できても、なかなか決められないものです。そのうえ、全校舎を建てかえる資金があるのか、理事会にそれだけの事業遂行能力があるのか、ないのか、という不安感が漲っていたのも事実です。
 こうした実情を背景に、本当に移転することが、東薬大にとってプラスなのか、マイナスなのか、綿密な計画を立てて判断をする役割を受け持ったのが、振興計画実施委員会です。毎週一度は幹事会を開き、調査、立案に大奮闘でした。さらに「将来計画ニュ-ス」を適時に配布して、審議の状況を周知することも同時に行われました。その殆どを幹事長としての労をとられた宮崎教授の御苦労は大変なものでした。
 その当時の検討の有様を「将来計画ニュ-ス」から振り返ってみましょう。
 東薬大の構成員、関係者が、こぞって関心を持った、現行地と八王子の比較については、相当期間にわたって慎重に取り組みました。誰しもが第一に考えるのは、現、柏木、桜木町両校地を再開発することによって、移転しないで済ませる方法はないものだろうか、という疑問です。この疑問に対して、建築計画の立場から研究されたのが、日本大学工学部建築学科の当時助教授であった小林美夫教授で、その研究発表が昭和46年4月に男子部図書館で開かれました。その記録の一部が図T・Uです。現行地の再開発は、法的規制により将来とはいわず、現在でも不満足な規模の校舎しか建築できないことが明瞭となり、教育環境として、益々条件が悪化することが予測され同時に、八王子新キャンパスの地理的条件が仔細に検討され、相当な評価が与えられました。建築計画の立場からすると、移転は必須であるとの結論が示されたことは、教職員と卒業生には、やっぱり移転しなければならないか、大変なことになったぞ、という印象を与えましたし、八王子キャンパスの買収を進めていた理事会は、見通しに誤りはなかったと安堵したものの、それに引き続く計画の立案、実施の膨大な作業がいよいよ現実の事柄として肩にかかって来る、その責任の重さを改めて噛みしめたものです。
 建設計画の立場のみでなく、その他の見地からの総合的な検討が進められて、移転の方針に誤りがないかを確認しつつ作業が行われました。特にキャンパス検討部会には、昭和45年の学費改訂で学生諸君との話し合いの間に、学生側から参加したいむねの意向が示され、理事会、教職員側も賛成して、協力を求めた所、学生側からオブサ-バ-として参加したいとの申し出があって、これが実現しました。以降、夜間の会議が多かったにもかかわらず、学生諸君が出席して熱心に資料を検討したり、メモをとる姿がみられました。学生諸君が、こうした将来計画に関心を持ち、その初期、基本構想の検討の時期から参加したことは、他の大学ではおよそみられないことでしょう。
 この進め方は、その後も踏襲されて、形のみを整えた委員会を設けたりせず事実的な形をとり、学生諸君からの意見も、長い検討期間に積み上げられた基本を土台にした、説得力のある、堅実なものが開陳されることになりました。

新たな難関「開発許可」
 八王子新キャンパス用地は、近郊緑地地帯でもあることなので、造成にはかなりの制限を受けて、相当な緑地を残さねばならない覚悟をしていたころは、既に述べた通りです。むしろ、その方が学校らしい学校ができ上がる、学校にふさわしい環境となるだろうという見通しに立って、造成の計画を立てようとしていました。
 ところが、思わぬ障害が待ち受けて居り、対策を立てる必要に迫られました。それはこの地域の利用について、それまで施行されていた土地造成等規制法という法律の適用を受けるのではなくて、新たに制定された都市計画法が適用され、開発許可を受けねば、学校用地として使えないという事態となったのです。買収地内にあった6000坪程の農地の転用の手続きが整わぬため、経過措置の適用を受けることができず、新法に切り変えられたのがその理由です。
 さて、新法によると、20ヘクタ-ルを超える面積の土地の造成は、大規模開発行為として、東京都の開発審議会の審議を経て許可を受けることになりました。その手続きを整えるために、かなりの日数が必要であること、以前よりさらに厳しい規制が加えられることもあることが伝えられました。
 こうなると、アカデミック・プラン(教育研究計画)→フィジカル・プラン(造成建築計画)→造成建築工事というやり方で進めることが難しくなりました。造成建築計画を立ててから、実際の建築に取りかかるまでに、かなり長期間、2、3年の空白期間が生まれることになりかねません。
 そこで、アカデミック・プランの作成中に、その審議の意向をとり入れて、平行して造成計画を作成してしまい、開発許可を申請する作業を平行して進めようということになりました。こうした多少とも変則的なやり方を取るためには、造成や建築について、経験の豊かな方々に新たに参加して頂き、その助言を得ながら作業を進めることにして、小林美夫教授に加えて、学校や病院の建築では第1人者として誰もが認める吉武泰水東大教授と、都市工学で著名な東京工大の鈴木忠義教授に、お忙しい中を無理にお願いして計画立案の助言を頂きました。
 専門家って素晴らしいものだ、と痛切に感じたのは、この時でした。東薬大から、学長をはじめとして土地利用についての希望が出されると、それがてきぱきと具体的にとり入れられて構想が固まって行く様は、見事なものでした。
 先ず、ゾ-ン計画から始められた基本計画は、第一に薬草園の位置を決めました。化学工業、製薬工業が発達した現代ではあっても、薬の起原、資源として天然物、特に植物が重要であるのは疑いのない事実です。このため、薬用植物の栽培見本園のみでなく、生態園とでもいう、かなりの自然園を造れないものか、下村教授をはじめとして調査が進められました。
 この新キャンパスの植物相についての調査は、東京薬科大学研究年報第23号にまとめられています。「自然を守る」と口で言うのは易いことですが、こうして足で調査を行い、克明に記録し、その調査に基づいて計画を立てることは、大変に難しいことです。この調査はまさに当然の事でしょうが、なかなか簡単にできるものでなく、高く評価されています。
 その結果、キャンパス東側に比較して、かなり大きな尾根が南に向かって突出している西側部分は、自然の湧水もあり、植物相が豊富で、武蔵野の面影を残しているから、是非保存したい、との勧告によって、二万坪以上の尾根をそっくりそのまま自然地として残すことにしました。
 東側に運動施設を設け、中央部の建築に適する地盤の強度の高い部分に校舎群をまとめ、これらのゾ-ンを、延長約1キロの円周状の道路で結ぶことにすると、ゾ-ン計画はまとまって来ます。
 ところが、以前からキャンパス東側を南北に走る都市計画幹線道路から、キャンパスの西側一帯に広がる南陽台団地に通じる14メ-トル幅員の舗装道路を、学校の負担で約700メ-トル建設して、地域住民の便に供するように八王子市から指導されていたのですが、この道路の敷地が何処にもとれなくて困りました。校地の南側を新たに買収して道路とする案も検討されましたが、農地、農家があって思うにまかせず、キャンパスの南端を通すことにしました。ところがこの道路の位置が低いため、切り通しを通すと、運動施設に使える面積が思った程とれず、その影響で増築予定地と考えられる部分も大変小さくなってしまいました。
 薬科大学であって体育学部ではないのだから、運動場ぐらい我慢しようという意見もありました。しかし、学生時代に運動することは、健全な身体に必須ですし、また、クラブ活動を通じて、人格形成に大きな良い影響を及ぼすことは疑いのない事です。加えて、社会人になってからの健康に、大きく貢献することでもあり、是非運動場施設のために広い用地を確保したかったのです。その運動場もないのでは折角のキャンパス作りが片手落ちに終ることは明白です。かなり議論が白熱する一方、八王子との折衝が続けられて、とうとう東西に走る14メ-トル道路は地下を通すことにしました。一口にトンネルといっても、グランドの直下を掘るので、延長100メ-トル程にもなり、このトンネル工事費だけで1億円を超える額の支出が加えられることになり、理事会としてかなりの負担を背負うことになりました。
 でも最近造成が出来あがって、運動場が広々とした姿を現した時、当時真剣に議論した全員がこれで良かった、と感じたことでした。
 残念なことに、野球用グランドは遂にあきらめねばなりませんでした。どうにかその余地を見付けだそうと、設計陣とともに、行政指導に当たった都庁の首都整備局と折衝を重ねましたが、断念せざるを得ませんでした。
 教育の施設の一部として、われわれに必要であっても、一面、自然を守り、交通の便を良くすることも、忘れてはならない市民としての義務であり、良い市民を教育する大学の立場として、双方の合致点を見付けるのは大変難しい事だと教えられました。
 さて、こうして造成の大要が固まり、開発の予備申請に引き続いて本申請を行ったのです。何分にも、法律が改正された直後であった為に、都庁も、学校も皆目見当がつきません。八王子市も同様で新法をどう解釈するかについて、「先ず勉強です、その後に指導しましょう。」といった具合で、なかなかに進みません。しかし、次第に八王子、都庁内で各課の連絡、調整が円滑に行くようになり、昭和48年3月に正式の許可を受けるに到りました。
 新法に改正後、東京都での大規模開発の許可第1号ということで、各方面で喜んで頂きました。これはわれわれの努力もさることながら、先に挙げた諸先生をはじめ、都庁、八王子の担当部課の方々の、学校側に立ったと思える程の親身のお世話によるもので感謝に耐えません。一日千秋の思いで待った許可でしたが、結果的にはかなりの短期間で済んだのはこうした経緯によるもので、この誌上で改めてお礼を申し上げます。

建築規模と維持経費
 造成計画が先に進んでいるので、是非、建築のマスタ-・プランから基本設計へと、進行を促進して本来の形に戻すことが必要となりました。しかし、何分とも現校舎は狭いうえに増築を重ねて来た、使い勝手の悪さがあって、皆不自由している現状から、八王子では一坪でも大きい面積を確保したいのが人情です。教職員と学生から、折角八王子へ移転するなら、あれもこれもと、要求面積が膨張して収拾できなくなる場合も考えられます。個人の住宅を建築する間にも、家族で相談している間に、部屋数や配置面積などで折合いがつかなくなり、あげくの果てには楽しい筈の新築が不満と反感で、家族中が不仲になってしまうことも珍しくありません。
 こうした結果に終わることも予想せねばならないので、取り組み方、問題の持ち出し方が難しいと考えられました。「八王子キャンパスは、あらかじめ計画を立ててから建築するので、効率的な使い方ができようから、始めから大を望まずに、2割程度に規模を拡大した設計をし、その後は八王子へ移転してから増築計画を立てるのが良かろう。」という意見や、それでも大き過ぎる、先ず現状規模の立てかえを計画し、それでも学校のように多人数で多目的に使う場合には、建物の分捕り合戦が起きるに違いないので、揉みに揉んだ末に、しぶしぶ譲歩する余地を予め考えておけば、そこで譲ることによって八方円満に収めるやり方が賢明な策といえるのだ、という案など、学校移転を経験された方や先輩から、忠告や助言が寄せられました。こうした案は、物事を上手に進めるには大変有益であるかもしれませんが、如何にも姑息な手段であって、むしろ手練手管というべきでしょう。
 八王子キャンパスは、東京薬科大学の将来の教育と研究の目標を定めて、総合的、統一的な計画を立てて進むことを基本的な原則として出発したのでした。その原則によって、建築計画を立てねば、これまでの努力は何の為のものかわからなくなります。ここでは是非、原則に立ち戻ることが大切で、そこから出発して基本計画を立て、それに向かって財政などを適合させて年次目標を作り、着実に作業を進めるというやり方が、やはり最も東薬大にとって相応しいものであり、これが唯一の方法です。
 現在の東薬大の校舎保有面積の2万500平方メ-トルを基礎として、その2倍、3倍も、つまり4万平方メ-トルでも、6万平方メ-トルでもの目標を設定して、その目標に対する年次計画、移転時の規模を適切に決めて、遂には目標に到達しようというものです。しかし、当初に大きな夢を持ち過ぎると、現実の2万500平方メ-トルを忘れて、いたずらに理想を追うドンキホ-テが生まれる心配があり、基本計画即ち移転計画だという早のみこみをする恐れはあっても、組織的な、正道こそ東薬大のとるべき道として、八王子キャンパス建設の基本姿勢として守ることにしました。
 その後、教育と研究というべきアカデミック・プランが作られて、いざ現実の移転時の規模設定の際に、やはり、どうしてアカデミック・プラン通り造らないのか、理事会は無駄な作業をさせたのではないか、無責任ではないか、といった批判が聞かれましたが、これはむしろ理事会の、基本姿勢の説明不足、周知不足のために起きたことと、大きな反省材料と考えています。
 さて話を前に戻して、学長を中心としたアカデミック・プラン作りは、建築計画特別委員会で東薬大の全教授総会メンバ-が参加して勢力的に行われました。卒業生よりもヒヤリングを始めとして、種々の立場から真剣な検討がなされて、次第に形成されて行きました。アカデミック・プランについては学長が内容について別に書かれているので、ここでは触れません。
 一方、資金関係特別委員会は、教職員がこの作業を進めている間に、財政面での検討を行いました。
 こうした新キャンパスへの移転は、膨大な建設の為の資金を必要としますが、更に、そのキャンパスの運営費を度外視して計画を立てるわけにはいきません。現在の東薬大の経常費用は、現校舎に合わせて組み立てられています。現状そのままの、2万500平方メ-トルの校舎をそのままの規模で八王子に建築するならば、かなり容易に維持経費を産出することもできましょうが、5割増、或いは倍増した場合の予測は、そんなに簡単ではありません。
 それでなくても、経常経費の不足は、総ての私立学校で深刻な問題で、東薬大もその例外ではありません。その上、経常経費のうち、70%近くは教職員人件費であって、その残りが教育研究経費、施設等の管理経費という配分の実体からすると、校舎の維持管理経費の増大は、直接に、教育研究費用を圧縮して、教育内容に悪影響を及ぼします。
 東薬大の場合には、現在2校地に分散している効率の悪さを、八王子キャンパスへ集結するために改善することができる、校舎の老朽化により、毎年かなりの営繕費が必要となっているその費用の節約が期待できる反面、環境維持や排水処理などの経費増と、校舎規模の増大に伴う経費など、色々の要素をそれぞれに分析して、東薬大が八王子へ移転する際に、現在の経常経費を基礎にすると、どの位の規模の校舎が保有できるのか、その限界を算出する作業が進められました。
 勿論、この算定は、建築物の設備、例えば空調の程度、面積によっても大きく違ってくるし、公共料金の値上げも影響します。
 基礎的な資料が整って、数字が固められたのは昭和48年初夏の頃でした。
 アカデミック・プランも学長のリ-ドによって殆ど同時期に答申されました。内容は多岐にわたりますが、学生数2400名と校舎面積を、現在の2倍にあたる約4万平方メ-トルを基本とするというもので、現在と比較すると、学生1人当たりの11.4平方メ-トルが、約16.7平方メ-トルとなります。
 早速、経常経費の面から、これまで集められた資料にあてはめて、経常経費の予想を行った所、移転時にはアカデミック・プラン通りの面積を保有することは不可能であって、現有面積の50%増の3万平方メ-トルが維持経費の面からの限界となろう、との結果が出されました。
 これは、現在の学生1人当たりの面積としては16.7平方メ-トルで、これを一つの指標として捕らえて、建築資金の面からの固めに入りました。

資金計画の推移
昭和42年の振興特別委員会では、全学移転を想定した予算とし、総額26億3000万円を挙げています。この内容は、土地費用として5億円、建物造作などに18億円等で、(3万平方メ-トル)現在の価格からすると夢のようです。
 その後の、昭和45年に発表した「本学の財政と理事会の姿勢」のパンフレットには次の数字に修正しました。
 この金額は、昭和49年春に、今後の資金計画として積算発表した数字とも尚相当な開きがあります。
 この相違はもっぱらインフレによるもので、その激しさは驚く程です。これだけの値上がりにも拘わらず計画が進められ、実施することができたのは、この資金源としてお金ではなく、土地を持ち、その土地が建築費と同時に値上がりしたことによります。
 当時、東薬大は柏木、桜木町の両校地と、小金井、秋多校地を持っていました。昭和42年の振興特別委員会の頃からこの校地を整理統合して、一つの八王子に纏めて、さらに建築資金の相当部分を賄うという考え方が基本となっています。このため、小金井、秋多両校地を処分して土地費用に、現在校舎があり、使用している柏木、桜木町は建築資金に、と大別して資金作りの方針が立てられました。
 先ず処分しようとした小金井、秋多両校地ですが、それぞれに難点があり、右から左というわけにはいかない事情がありました。小金井校地は矩形の平地で中央線からも近く、利用価値は大きい筈でしたが、公園緑地に指定されて、建物が作れません。東薬大は薬草園として使っていましたが、その他に利用するとすれば、運動場にする位だといわれていました。学校は嘘をついて売るわけにはいきませんので、それを承知で買ってくれる買い手を探さねばなりませんし、秋多校地は、交通の便が悪くて、改善されるのが将来のことであり、利用するには、かなり、造成工事が必要です。さらに市街化調整区域でもあり、ここも簡単に買い手が探せそうにありませんでした。
 しかし、八王子の買収と平行した、熱心な買い手探しが実って、総額は約6億円で話が煮つまったのが昭和46年5月でした。
 一方、柏木、桜木町校地の売却については、異論がありました。現在教育と研究が行われている為に売却の時期が問題ですし、その上、かなり高価に、有利に売れたとしても、売る事それ自体に抵抗がありました。両校地で学生時代を送った先輩や教職員に共通した感じとして、何とか売らずに済む方法はないものか、という声が各所であがりました。
 両校地で収益を挙げる事業をして、儲けたお金で、八王子キャンパスの校舎建設の借金の返済、利息を払うことができれば、売り払ってしまうよりも、余程良策といえます。
 この線に沿って、先ず柏木校地についてその立地の広域的特性、地域特性からはじめて、広汎な分析が行われました。同時に、代表的な利用法として、高層住宅を建築するとして、その採算計算やスケッチを数度にわたって、専門家を煩わして画いてもらいました。その結果、柏木、桜木町両校地に、その利用についてはかなり制限のあること、土地価格の変動が著しく、適切な事業が見付け難いこと、資金繰りにかなり問題があること、八王子キャンパス建設と平行した時期となるので、事業遂行能力に問題があること、などが指摘されました。
 感情的には抵抗があっても、単純に売却する方法も八王子新キャンパスに全力を挙げられる利点があって、悪くないやり方だと考えられました。但し、この場合には相手先とし確実な所を選ぶ必要がありますが、この両方法を平行して、検討を続けました。
 こうして収入を確保する方策が練られ、さらに寄付金募集についても、基本的な方針が論議されましたが、これについては後に触れます。
 さて、支出の面ですが、校舎とその付属施設についての建設費の試算が何度も繰り返されました。普通のオフィスビルと違って、それぞれの目的に合わせて建築するので、内容的な検討が必要です。昭和47年に入って、それまで比較的低率であった建築費の上昇が、次第に加速をつけ始めました。その後、昭和48年に入って一時小康状態を保っていた建築費は無気味な動きをみせ、将来への不安感が次第に高まりました。この時期に試算したものを挙げてみましょう。
 昭和48年から、それまで異常な高騰を続けていた土地について、強い国民世論を背景に、種々の規制措置がとられ始めました。土地の価格を度外視して考えても、こうした規制によって、益々柏木校地の利用が限定されて、売却する場合も、収益事業を行う場合も、困難さが増し、先行きに不安が増す状勢となってきました。柏木校地は東薬大の資金源として虎の子ともいうべきものですから、1、2年先に譲渡が制限されるような規制でも始まれば、折角の将来計画は、そこで一頓挫です。そこまで行かなくとも捨て値で投げ売りする事態になったらそれこそ一大事です。
 そこで、計画の進行状態を再検討して、最善の方策をとることにし、計画の進行を促進すると共にその時点での資金的な収支を確かめ、建築規模を推定した所、これまた経常費よりの試算と符号して、3万平方メ-トル程度の案が得られました。こうして移転時3万平方メ-トルの校舎保有を一つの目処として、実施計画の設定を急ぐこととしました。

早期着工、早期移転
 土地規制の進み方と、依然として進行するインフレに対処した、計画進行の再検討は、造成工事の完成と建築工事の開始の時期から始められました。土地造成は昭和48年3月より、49年10月の1年半にわたって行われ、完成検査を受けた後に、都知事の完了告示をまって建築工事が開始される、という順序を経ることになって居り、完了告示以前に、建築工事に取りかかることができないと、都市計画法で定められています。さらに、近年建築工事の工期は伸びる傾向にあって、八王子新築は、1年半は必要だろうという予測もありました。このため、49年11月に若し着工できても、完成は51年の4〜5月となり、新学期に間に合わない恐れもでてきました。そうなると、移転は51年夏休み、柏木校地の明け渡しは51年9月以降となります。これでは柏木校地を利用する場合も、売却する場合も、おいそれとはいきません。48年当時から3年先の話では、誰も話に乗って来てくれないのは当然です。
 そこで、造成完了以前に建築工事にとりかかる方策はないか、何年先に柏木校地を明け渡すことができれば買い手が見付かり、また収益事業計画が立てられるか、インフレに立ち向かえるか等という事についての検討を行った所、都市計画法第37条の適用を受けることにより、造成完了公告以前に建築着工が可能である。但しこの場合には相当程度の造成を済ませて検査を受ける必要があり、八王子キャンパスの場合には、49年3月以降となるだろう、ということが伝えられました。さらに、金融状勢からして、柏木校地の収益事業はかなり無理であり、売却が好ましいこと、さらに、明け渡しは、できるなら50年8月、遅れても51年3月迄が望ましいこと、が結論として得られました。
 一方建築計画委員会は、アカデミック・プラン答申後、基本設計を進めて、48年11月に完成させる予定で作業を行って居り、その後に実施設計に入り、49年の造成完了と共に建築着工の予定に合わせて進行中でした。
 理事会はこうした状勢を踏まえて、総合的な見地から、それまでの計画の進行を促進して早期着工、早期移転の方針を立て、これによらねば八王子への移転は遂行し得ず、計画は互解すると判断しました。しかし、この方針が学内、学外で受け入れられるかどうかについては、全く見通しが立ちませんでした。しかし、これ以外の方策の無い事を確認して、全学に協力を求めた所、案の定、議論百出で相当な混乱が起こったことは、致し方のない事かもしれませんが、残念でした。
 中には、「計画は得てして遅れるもの、それを繰り上げようというのは面白い案だ。」といってくれる人もありましたが、その理由を要しました。それも、将来の事で、見通しだけの事ですから、案外そうならない場合も考えられます。まして建設計画委員会は基本設計と取り組んで、隊伍堂々と行進している所へ、藪から棒に、駆け足の号令が掛かったようなもの、面食らうのは当たりまえといえば当たりまえです。丁度そこへ石油ショック、狂乱物価の状態となって、はからずも事態が急を要することの証明となりましたが、むしろそれを通り越して、こんな狂乱物価でも建築できるのか、と言う不安感を学内外に漲らせた効果も忘れられません。
 急拠、建設計画委員会は解散し、殆ど出来上がっていた基本設計は、できるだけ早く実施計画に移し、細かい手直しはその段階で行うことにしました。
 学生諸君との話し合いも中断して混乱し、計画の進め方に不信感を煽る結果となりましたが、今になって振り返ってみれば、多くの諸君に、理解して貰えるのではないかと考えています。
 しかし、早期着工、早期移転の努力が、早期着工のみに終わり、建築の完成が、工期の延長の傾向で思うようにならず、予定された51年4月八王子開校より繰り上げられなかったことは残念です。が、若し、49年11月、予定通り着工を予定した場合には、或いは計画放棄を余儀なくされて、東薬大の将来が暗黒となる事態を招いたことの可能性の高いことを考えるとき、少なくとも当時で考えられる最善の判断であったというべきでしょう。

土地売却と設計監理、建築会社の選定
 このように学内でもあわただしい日の続いた昭和48年の秋は、それ以外に、設計監理を任せる会社の選定と、土地売却と建築会社を決める準備を進める必要がありました。
 マスタ-・プランの作成と基本設計の作成については、日本大学の小林教授とその主宰されるアトリエ・Kが、長い期間かかって纏め上げつつありました。このままの形で実施設計と監理を継続して委ねることがよいのかどうか、建築計画を創り上げる力は優れている反面、それ以後の実施面では、組織の大きくて強い設計監理会社があり、東薬大の計画遂行には、こうした会社に任せることが望ましいのではないか、という意見がありました。種々の調査が始められて、東薬大の希望する、早期着工と、期間内の工事完成の為には、設計、監理陣を強化して、頭脳集団ともいうべきアトリエ・Kに加えて、組織力豊かな設計会社の協力が必要との結論を得ました。そこで直ちに、実際の会社の選択にかかり、いくつかの候補の中から日本総合建築設計事務所に白羽の矢を立てたのです。早速、交渉がはじめられてアトリエ・Kと共に、東京薬科大学八王子キャンパス設計プロジェクトとしてチ-ムを組み、今後の設計、監理に備えて、態勢作りに入ったのです。
 しかし、まとめの段階に入っていた基本設計と、実際の造成地盤との間に一部齟齬があり、急遽その手直しをするなどの為に、実施計画に取りかかるまでには、相当な時間を要しました。
 さて、柏木校地を売却する方針を固めたことは既に述べた通りですが、何時の時点で売却するのが最も好ましいかについての検討が続けられました。土地価格が急上昇を続けている間は、なるべく時期を遅らせた方が有利です。建築工事完了後でも良いかもしれません、しかし、土地規制の厳しくなる傾向と、土地価格の頭打ちの現状では、なるべく早い時期に契約して、買い手が速やかに利用計画を立てて、準備をすることが望ましく、売り手側の東薬大としても、契約することによって、資金計画が確定して、安心して仕事が進められる利点があります。このために、建築の契約と、柏木校地の売却とは、殆ど同時期に行うこととして、その用意が進行しました。
 柏木校地については、もう数年も前から、まだ東薬大自体が利用計画を練っていた時分から、別に頼んだこともないのに、私が理事会から処分を一任されています、という人が買い手を物色しているとの情報があったり、一流商事会社の社員が、一坪当たり40万円という価格だそうだが、少しまけてくれないか、等と突然申し込んで来たりで、大変迷惑しました。不動産の業界では、かなり話題になっていたようです。このため、売却は慎重に進めることとして、銀行の不動産部等に土地の評価を依頼する一方、経済状態からして、買い手はどのような業種の会社か、また地方公共団体等の希望はないか、などの調査を進めました。
 柏木校地程の規模の土地となると、買う方も一目みて決めるわけにはいかず、われわれが以前調べたように、立地条件から始めて、法規制その他のあらゆる角度からの検討の結果で判断するのが普通です。その作業は早くて三ヶ月、まあ半年はかかるものと考えられます。ですから、売却する場合には、半年程前から売る意志を明確にして公表し、多くの希望者の中から最も東薬大に条件の良い所を選ぶのが原則です。
 しかし、反面、こうしたやり方は、自分では買う実力の無い人々が暗躍して、数年前のような混乱を生む恐れもあります。そこで東薬大として、最も原則に近くて、混乱を招かない方策を考えて実行することとして、金融機関などを通じて、校地を買う実力のありそうな所へ連絡して希望者を募るという方法をとることにしました。
 この場合に、もう一つ問題があります。校地の買収希望者が建設会社であった場合、必ずしも高い価格で買ってくれなくとも、八王子キャンパスの建築を低い価格で請負ってくれる場合があったとするならば、かえって東薬大にとって有利といえます。その上、買収希望は建設会社が多いという見通しもありました。
 さらにまた、建築の請負金額を決めるには、実施計画を済ませて、その設計図によって見積りをするのですが、八王子の実施設計は、昭和49年の春もしくは初夏にならないと完成しないのです。
 こうした三つ巴の関係、設計の進行、土地売却、建設会社の決定を、上手に処理しないとちぐはぐになり、こじれてしまい、早期着工は望めなくなります。その為に、細かいスケジュ-ルが組まれ、実行されました。
 この時期に、建設計画委員会を解散したことなどで、学生諸君に、理事会の計画の進め方に、不信感が生まれたため、何回かの説明会が開かれました。クラブ部室、寮、運動施設についての要求と共に、計画の進め方に対して活発な意見が出されたため、こうした基本的な問題、移転する、しないを含めて、学内協議会を開催して、その場で審議しようという理事会の提案が認められなかったのは残念でした。学内協は昭和45年の学費改訂の際に、これからの重要問題を話し合う唯一の会議として設けられ、その後、生協設立などの際に開かれた歴史を持つものだけに、無視されたことは意外でした。
 昭和49年1月にも、再度開催を申し入れたのですが、教職員側は賛成の意向を示されたにも拘らず学生側から拒否されたため、理事会は八王子移転計画を理事会の責任で進めることを声明して、現在に到っています。
 しかし、土地売却、建築会社を決定しようという、重要な段階で、学生諸君と十分な話し合いができなかったことは、非常に残念で、その後、移転についての学生諸君の意見の中には、この時期に理解し合っておかねばならなかったものが多いことは、それを裏書きしているといえましょう。

土地売却と建築契約
 柏木校地の買収申し込みは、厳しい社会、経済状態にも拘らずかなりの数にのぼりました。しかし、さきに評価した価格である1平方メ-トルあたり24万円(坪当たり約80万円)よりも相当に有利な価格で売却したい意向でこれに当たりました。
 買い手側の調査も進んで次第に価格や取り引き条件が練れて来て、真剣な話し合いがおこなわれるようになりました。特に大手五社といわれる建設会社は熱心な検討を続けて、種々の条件の提示がありました。しかし、昭和49年4月になると、話が煮つまると同時に絞られて、建設会社の鹿島、大成と、その他1社が残ることになりました。両社共に、土地買収と同時に建築工事の請負を希望した為に、丁度完成した実施計画図面を両社に交付して、その見積りを提出させ、そのうえで選定することとしました。
 この間に他の1社は脱落し、2社を対象とすることになり、5月下旬、その見積りが提出されましたが、両社共わが国を代表する建設会社であるため、価格、条件等、甲乙のつけ難いものがあり、設計側からみても、妥当といえるものと評価されました。しかし、東薬大としては、更に希望する条件、例えばインフレの対策について契約を結びたいと考え、評議員会の意向を確かめた上で更に両社と交渉を重ねました。
 6月下旬まで、殆ど1ヶ月間にわたる折衝の末に、両者の提出した条件で差異のあるものについては、東薬大に有利なものをとり、両社が共同して受註することになって決着しました。
 その後、設計側、造成工事を施行している佐藤工業、その監理を受け持つ新INA土木研究所等とも始めて顔を合わせ、打ち合わせをした時に、建設会社の代表から「今回の仕事は、教育事業、特に薬学教育の重要性を認識して、採算を度外視して共同で受註した。建築側の儲けるというより、社会への奉仕の意味を汲んでもらいたい。立派な学校を完成させて、皆さんと喜びをわかち合いたい」との挨拶がありました。これは決してお世辞や、思い付きでなく、この難しい時期に工事を請け負う覚悟を、素直に言われたものと、印象深いものがありました。
 こうして7月5日に契約を済ませ、8日には起工式という段どりで建築が始まったのです。結果からみれば予定よりたった4ヶ月しか繰り上がったことになりませんでしたが、これで昨年暮の石油ショックのような異常事態が起こらぬ限り、昭和51年の始めから引っ越しができ、4月からの開校に十分間に合うこととなり、計画修正の趣旨は生かされました。

今後の問題点と計画
 建築は始まりましたが、未だに残された問題は少なくありません。順次に取り組むというより、早急に決着を迫られている幾つかの問題を挙げてみましょう。
 第1は、学生諸君の生活面での問題です。交通と寮について、強い希望があります。移転する八王子の新キャンパスは、野猿遊歩道という、かって植物採集のために出掛けたり、遠足に行ったことのある多摩丘陵に位置していますから、東京旧都心からみたら今でも田舎であって、東薬大の都落ちとの印象があるかもしれません。しかし、前にも述べた様に、多摩ニュ-タウンは、東薬大の南西に建設中であり、近く、遥かに西へ伸びて橋本に達します。そして、東京西郊の文化圏は、今着々として姿を現しつつあります。こうした立地は、総てを東京中心に考える立場からすると問題でしょうが、東薬大を含めた文化的な良い地域社会を形成しようという考えをとれば、教育と研究の最適地といっても良いでしょう。
 さらに重要なことは、この移転は、突然誰かが思い付いて、ただ将来にバラ色の夢を描いて、また良い土地が見付かったからなどという単純な考えで決まったのではなくて、既に縷々述べたように、薬学教育の深刻な反省と、現校地の物理的、地理的条件が、もはや東薬大を支えきれないという現実を踏まえて、やむを得ない移転であることは、是非認識して貰いたい点です。
 そのために、使える資金は、すべて教育と研究施設と設備に投入したい所なのですが、構成施設や、運動施設にもかなりの資金を配分しました。できることならアケデミック・プラン程度の規模を造ってから移転をしたかったのですが、残念ながら移転時の規模はそこまで行きません。しかし、現在の保有面積より、少なくとも60%は大きいものとなります。
 このために、どうしても学生諸君の生活面に十分に配慮する所まで行きません。現在もある女子寮は、その規模を拡大して新設しますが、それが精一杯であり、男子寮を新設するだけの余裕がないのは、私学の現実として理解して貰いたい所です。交通についても、放置することなく、校地からの何らかの便の確保を行ってから、開校したいと考えています。
 第2は資金面です。石油ショック以来の異常な物価高によって、資金計画は大きく膨らんでしまいました。幸いなことに、売却土地価格がそれに伴って上昇したために、計画中止という優き目を見ずに進んで来ました。しかし、相当額の資金不足が予想されます。評議員会の同意を得て、この不足については一部を借り入れ、一部を八王子新キャンパス建設の募金を行うこととして、広く卒業生をはじめ東薬大関係者の方々によびかけることとしました。現在同窓会などで具体案を検討して頂いていますので、近くその成案を得て御協力をお願いすることになろうかと思います。
 東薬大は昭和55年に、建学百周年を迎えることとなりますが、さらに充実した薬学の教育をし、社会の厳しい要求に応え得る薬剤師を育成するために、その第一段階として施設の整備が必要です。この機会に時代を担う後輩が次の百年の間、すくすくと育つ環境作りとして八王子新キャンパスは、必須であることを、是非共御理解頂いて、建学百年を記念する意味からも、御尽力賜りたいと考えます。
 長々と書き連ねました。振り返ってみると昭和42年の振興特別委員会発足以来7年余を経ています。薬学と薬剤師教育の現在を飽き足りなく考えた者達が、押したり、引いたり、素人の集まりの悲しさで辿々しく進めて来た計画ともいえる難行苦行の連続でした。
 しかし、一方では現在、医薬分業の動きが俄に活発になって来ています。福祉社会を求める国民の願いは、安全で有効な薬を、安心して得られる制度として医薬分業に同意し、この制度を押し進めることに賛成しているに違いありません。その仕事を受け持つ薬剤師の学識と技術と経験と、それに加えて医療を見る目が、十分に国民の期待に添うものでなければ、この制度は次第に、いやすぐにも、国民から飽きられてしまうでしょう。
 東薬大は今、まさにこの要求に合致した教育を行う大学として、施設作りの最中だ、といえましょう。こうした国民の期待に、十分に応え得る若者達が、八王子の新キャンパスで育つ日が近いことを考えると、難行も苦行も少しも負担ではなくなってしまいます。
 最後に八王子キャンパスは、植栽も進んで校地らしい雰囲気が漂い始めました。是非機会があったら覗いて頂くことをお願いして筆を擱くことにします。

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