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開局薬剤師の理想像を求めて(3,1,3)
ファルマシアVol.18,No8;
日本薬学会;1982
実務と薬学と技術と
ヨ-ロッパの一部では、開局薬剤師のみが薬剤師の肩書を許されている。製薬や病院の勤務者は開局薬剤師を目標に努力し、また難しい開局を諦めて研究者を続ける人々もある。
わが国の開局薬剤師はこれと大違いで、他の分野で使いものにならぬ落武者の流れつく末と見られているから、自ら名乗る肩書ではないと忠告されたことがある。なるほど、○○薬局経営などはあっても、開局薬剤師はほとんど使われない。
さらに薬学研究者などと比べて、一般に実務者である薬剤師職業を低く見る傾向や、意識を持つ人々も少なくないことからすると、まさに開局薬剤師は薬の世界の掃溜的存在に違いない、この落ちこぼれ薬剤師の理想像とはまことに難しいテ-マである。
自虐的な見方をしなければ、現在のわが国の開局薬剤師はOTC(包装済一般用医薬品)の販売を通じて社会に大きく貢献している。いい方を変えればhealth care,primary careの領域で、community(medicine)に果たしている開局薬剤師の役割は決して小さいものではない。OTCなしの医療は不便でもあるし、またどれほど巨額の医療費を要するか想像もつかない。
この分野が今後とも重要であり、それを担う職業人を社会が求めていることも事実であろうし、実際の仕事に従事している開局薬剤師の中には肌で重要性を感じとっている人々も多い。
しかし、この仕事は傍から見れば比較的単純と映るうえに、他からの参入を許しているために、開局薬剤師固有の業務とみなされないし、開局薬剤師の業績として評価されることもない。
とくにわが国の薬剤師は製薬、調剤を行う職業人として出現(法制化)し、教育が行われた経緯があるために、例えばOTCの製造には意味があっても、取扱いや販売は薬学と本質的な関連は少ないと考えられている。
高度の技術を持つ職業人は、しばしば閉鎖的、排他的な職業集団を形成する傾向がある。これが社会から排斥されずに許されるのは、その集団が技術の向上を図り、その学識や経験が社会に恩恵を与えると認められた場合に限られよう。古くから、医師をはじめprofessionと呼ばれる職業人集団はこうした特色を持っている。国家試験による資格を持つ薬剤師が、もしこの範疇に入るなら、常に実務の向上の努力が重ねられるべきであろう。
開局薬剤師が、OTCの販売の実務の経験を薬学にfeedbackして学問的に技術的に体系づけを求める努力も足りなかったし、薬学側も単なる商行為と割切り、health care,primary careに思い至らず、ましてこれが学問や技術として薬学の中に包含すべきとは考えなかったのであろう。
しかし、これは誰れを責めることでもなく、わが国の薬剤師、薬学の歴史の短かさに起因する欠点であったに違いない。
関連してさらに掘り下げてみよう。学問や技術は時として不連続的な、むしろ変革といえるほどの変化を遂げる場合がある。しばしば例に挙げられる、コペルニクス的転回とか量子の概念の導入と同じ程度とも言える変化が、開局薬剤師を襲うことがある。昭和30年代には製剤技術の進歩、大量生産と大量販売の波、国民皆保険による国民の医療、医療費の意識の変化は、どの一つを採り上げても大き過ぎるほどであるが、同時に襲われて、対処の道を失い、その後遺症は今に続いている。
昭和40年代の医薬品の有用性についての評価の概念の変化は、医薬品開発の手法を変えただけでなく、薬剤師は患者を“ヒト"という生物の種として見ずに、かたよりをもつ個体として認識することを求められ、その見方は次第に定着しつつある(clinical pharmacy)。斬進的な学問や技術の進歩をfollowするのは比較的容易でも、余りに急速な進歩、特に概念の変化を含む変革に追従することは相当な難事であり、開局薬剤師も例外でない。
開局薬剤師である筆者が調剤薬局を開設して業務を調剤に限定しようとしたのは、大きな変革に対応するため、業務を単純化して対処しようとの試みであって、開局薬剤師の本来的役割は決して調剤に限られるものではない。
以上述べたように、開局薬剤師が将来とも薬剤師資格を持つならば、それは当然学問、技術志向でしか存在し得ないし、かつそれらは薬学が負わねばならない。これらの薬学は古典的薬学ではなく、社会と医療が求める、今までにない分野であるかもしれず、その教育はただ技術的なところに止らず、本質を見極めることから始められねばなるまい。
こうした、開局薬剤師の実務と、薬学、技術の相互の基礎的な努力の結果として、はじめて開局薬剤師の理想像が浮びあがるものと考えている。 |
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