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加州 研修旅行のまとめ(2,1,1)’
開局薬学研究会誌 Vol.1,No.2:1983
§経緯
昨年暮(1982)のUCSFの見学などカリフォルニアの実態を開薬研の会員諸君に披露し、会誌にも載せてもらった所、何人かの会員から「自分の目で確かめてみたい。」との希望が寄せられた。事務局と相談した所「10人集まればやれそうです。」との返事があったので、本気で計画をたてて貰うこととした。何分とも、こうした旅行のお世話をするのは始めてであるので、事務局の苦労は大変なものであった。
その上に、幾つかの注文を付けた。それは;
1. 忙しい会員が参加するのであるから、期間は一 週間、時期は月初、月末を避けて中旬とする。
2. 見学も無論大切であるが、さらにレクチャ−やディスカッションを行いたい。
3. UCSFや、開局薬局と共に模範的な病院も含めよう。
等々であった。
現地での折衝があるので、直接にサンフランシスコの旅行会社に頼むこととし、当時、何人かの会員から折角の旅行なので、他へも寄りたいとの希望があったので、サンフランシスコ空港前集合、ロサンゼルス空港解散で予算を作って貰った。ところが見学のお世話ぐらいならやれますが、レクチャ−などの講師との交渉は無理だとの返事があり、その面は、UCに在学中の長男、善郎に頼むこととした。次第に煮つまった3月の例会で希望者を募った所、一週間程で10名近くの会員から参加したいとの返事が寄せられた。そこで事務局から、実施を決めますとの報告があった。
何回かの現地との連絡の結果、かなり忙しいスケジュ−ルではあるが、一応満足できる実施案が出来上った。
その内容は、次の通りであった:
1. サンフランシスコ周辺で、UCSF医療センタ−、開局薬局、ショッピングセンタ−などを見学する。
2. ロサンゼルスでは、メモリアルホスピタル、開局薬局を見学する。
3. 見学も飛び歩きでなく、説明とディスカッションのできるようにお願いする。
4. レクチャ−は夕食後とし、1回約2時間とする。
5. 講師には
a) カリフォルニア薬剤師(会)のアウトラインを話せる薬剤師。
b) 開局薬局でのClinical Pharmacyを実践している薬剤師。
c) 地域薬局、特にドラグストアチェ−ンとの競争などのある地域の開局薬剤師。
6. ホテルはレクチャ−会場のとれる所を選び通訳も頼む。
現地の旅行社(E&W TRAVEL)側の努力によって、一流のホテルに予約がとれ、さらに事務局の山本氏が極めて廉価な航空券を探してくれて、すべての経費を含めて50万円程でまかなえることとなった。
研修旅行であるから、旅券、ビザなども個人で取り、何事も旅行会社まかせ、引率者まかせのセット旅行気分でなく自分でやるということで、これだけの費用で済んだと考えている。
さて、旅行は事故もなく無事に終わった。参加した会員諸君の賢明さと度量によって、こうした際に起こりがちのいさかいなどもなかったし、病気で大騒ぎすることもなかった。
同時に、すべて例外なく真面目に、意欲的に研修に立ち向かったことは、大きな成果といえよう。
事務局から会計報告がされると思うが、すべて明瞭にしておきたいものである。
参加された会員諸君の協力と忍耐に改めてお礼を申し上げたい。
§背景(1)
外国で制度などを視察するのは、案外に難しいことなのである。例えば、「米国の大学は入学は易しく、卒業するのが難しい。」とわが国ではいわれている。ところが、実際にはそうでもないようである。そのような大学もあるが、ハ−バ−ドなどのアイビ−級の大学のように極めて入学し難い大学も少なくないようである。これなど「米国では内容は充実しているが、そんなに入試の競争率の高くない大学がある。その中には、あなどって勉強しないと、仲々に卒業できない程、程度の高い大学もあるのですよ。」という主旨の話に、次第に尾ひれが付いて、一般に米国の大学は云々、に転化したのであろう。
実は私にもその経験がある。1962年に初めてヨ−ロッパから米国を旅した。その頃はまだわが国は外貨不足で、仲々に外国へ出られない時期で、外国の薬剤師会や、学会等から招待状(Invitation Letter)をもらって始めて出張(?)できた時代であった。このため、見学の機会は多かったがどうしても公式的になり、表面的な話しか聞けないように感じられた。それでも、ドイツではこうである、欧米ではああである、といった幾つかの、もっともらしい話が、実は100年も前に行なわれた昔話であったり、全くどこから出たのか不明のものであったりした。
沢山の資料を貰って来て、それを読み返しているうちに、どうもこれはもう一度見直すことが大切であると考えて、今度はなるべく裏側から実際を見ようと、車を借りて旅行をしてみた(1966年)。
オスロで車を借り出して、市内を回り出して、もう驚いたことを覚えている。薬局を訪れて、薬剤師と話をしているうちに、処方薬に関して殆ど保険の適用がないことに気が付いた。そんな筈はない、前回はスウェ−デン、デンマ−ク、ノルウェ−などで完備した医療保険の話を聞いたではなかったか、一体どうなっているのだろう。薬剤師氏は「自分の病気の薬を、なぜ他の人達が面倒を見なければいけないのですか。」と不思議そうな顔をする。やっと分ったことは医療と薬局とは違って考えているということだった。働くことの出来ない子供と老人の保障はあっても、働く人は基本的に自分のことは自分で払うという原則はまだ残っているのであった。スウェ−デンでその後「7クロ−ネの改革」を実施(1970)したが、このとき初めて償還制をやめ、1回の調剤(受診)に円換算約450円の一部負担を支払うこととなったと記憶している。
つまり、前回説明を受けたのは公的医療であって、開業医診療や開局薬局調剤ではなかったのである。現在では、また違った制度によって薬局が経営され、薬剤の支払いが行われているようであるが、整然とした医療制度、医療保障(保険)制度の行われているといわれるヨ−ロッパですら、この有様であるから表面的でない実態を知ることは、そんなに簡単ではない。
そこで、再び集めた資料を訳して、それにアウトラインをつけてまとめたのが、「欧州の薬剤師と薬局」(1970)である。なるべく自分の主観を入れないで、なまの資料を読んでもらいたかったのである。(念の為つけ加えるが、だからといってヨ−ロッパが、まだスウェ−デンが駄目というのではない。)
さて、米国であるが、歴史の長いヨ−ロッパと違い、新しい国であるし、各州が独立国のような国情もあり、一概に「アメリカではこうである」と云えないのが普通である。本当に全国で共通なのは、「ドル」というお金位だといったら極端であろうか。法律もばらばらであるし、法律の無いこともままあること、つまり慣習法、平衡法の世界では判例だけということも珍しくないのである。
特にカリフォルニアは19世紀の半ばから、急速に発展し、現在では全米随一の人口を有する州となっただけに変化の激しい州であり、そしてまた裕福な州でもある。最新技術、例えば半導体や遺伝子工学、宇宙工学などでは必ず主役を演ずる州でもある。そのくせ東部諸州の人々から成金的新参者といわれたり、異端視されることも少なくないようである。
こうしたカリフォルニアの見学は、その本質を理解するまで堀り下げることはむずかしいであろうと予想された。整然とした制度があり、整然と実施されていることがあろう筈がないのである。しかし、他のScienceでもTechnologyでも、遠くて眺めている間は、何が何だかわからない。そのうちに、大きなピラミッドになっていることがあるので、是非近くで手に触れてみたいと考えた。
薬学でも新しい分野が姿を現して来ている。それこそ、あんな薬学は異端だ、と決めつける人もあるようだし、あれが薬学か、と反感を持つ人もあろう。この20年間、カリフォルニアの薬学はもがき続けて来ている。そして着実に同調者を増やし、実績を挙げているようだ。それが本当に何であるか、その本質を見極めたい、という好奇心を押さえることはできなかろう。
だから、その見方として、まず見学し、さらに色々の立場の薬剤師とディスカッションをすることから始めたいと考えた。
今回は薬剤師だけのレクチャ−、ディスカッションであったが、次に住民、医師、看護婦など、他からの批判も聞きたいものであった。またカリフォルニアだけでなく、隣りの州の実状も調べれば面白かろうし、製薬業界の見方も知りたい所である。
今回の旅行は期間に制限があるので、そう全部を実施するわけにはいかないのは当然であるが、あとは各自が、また時間を見つけて見学に出掛け、調べれば良いと無責任なことを考え、入門編とした。
この程度で、クリニカル・ファ−マシィとは、こういうものですと整然とした報告を書くことができるものではなかろう。そんなに簡単なものではない筈である。しかし、入門編なりに充実した旅となっている確信はある。
むしろ、学問そのものより、カリフォルニアの薬剤師の生きざま、暮しざまについて感じることがあったと思う。
本を読んで知ることができないのは、むしろこんな事ではあるまいか。折角の旅のひとつの目的は果たされたといってよいのではあるまいか。
§背景(2)
さて、米国で誰かと話をすると、すぐに競争に関連してくる。薬局の薬剤師は隣りの薬局、雑貨屋さんとの競争を、どのように勝つかを考え、見学のわれわれに熱心に語る。何時か、ボストンの郊外の薬局で、(多分、可児重一先生だったと思うが)「そんな厳しい競争を、制限する法律を皆で考えたら良いのではありませんか?」と質問したら、その薬剤師氏は、一瞬キョトンとしていたが「競争の嫌いな人は、ロシア(社会主義の国という意味だろう)へでも行けば良いさ」と云ったのを覚えている。
大社会でも、IBMと司法省の間の通信業務での起訴、AT&T(電話会社)のウエスタン・エレクトリック保有問題などをはじめ、独占禁止に関する話題は、終始聞かされる。
大学の先生や研究所でも、わが国でいう生臭い話が出る。若い教授達は、テニアンと呼ばれる定年迄を保障される教授になるまで、常に競争者よりも実績を挙げ、学生に良い指導をして競争に勝たねばならない。このため、それこそ必死で、夢中で仕事に打ち込む。このエネルギ−が学問の進歩の原動力なのかなあと思うこともしばしばである。
しかし、米国の社会で誰もが競争を好み、公正な競争を望んでいるわけではない。製造者は談合してでも自分の製品を高く売りたいに違いない。事実、こうした談合が盛んに行われた時代もあったようだ。
つまり、西部開拓により年々国内でも市場(マ−ケット)が拡大を続けた時代が終わった19世紀の末に、競争よりも談合による価格の維持が行われて、経済が沈滞した。不景気が続いたという。
この状態を解消するための、競争を制限しない法律が決められた。これが公正取引法である。この法律により、米国の経済は息を吹き返して、今日の繁栄の基礎となったといわれる。だから、米国の経済・ビジネスを知ろうと思ったら、先ず第一に、公正取引法のアウトラインを勉強することが大切といわれている。
わが国でも戦後になってアンチトラスト法を母体にして同じ趣旨の独占禁止法が生まれ、公正取引委員会という行政体が運営している。
太平洋を隔てて、風俗、習慣の違う社会での法律であるから、必ずしも同一ではない。むしろ違うことの方が多いのである。それ故に、余計に米国の法の概要を知って、競争の原則などについて理解しておかねば米国の実態の理解は難しかろう。
こうした競争の土壌の上に、あらゆる人々が競争をしながら生きている、ということになるので、ただやみくもに喧嘩しているわけではない。大学研究所や医療の中でも、外から見れば全く無秩序な競争がなされている印象があるが、実は大きな原則があるのかもしれないのである。
ひるがえって、わが国の開局薬剤師の中では、仲々に競争について口に出せない。
競争といえば、すぐに「安売り」ととられてしまうからである。価格競争ばかりでなく、技術向上競争があることを理解してくれる人は多くはいない。だから、開局薬剤師の周辺で「競争」は、タブ−、禁句である。もっというならば、開薬研で独禁法を勉強するという話が広まったら、本当の意図を理解することなく開薬研とは、開局薬剤師の経営研究会に過ぎない、と決めつけられるのは、目に見えている。
米国と同じに、わが国も競争社会であることに変わりはない。医療も内容は技術であるから、常に競争がある。患者は見立てのうまい医者に集まるのも、この現象である。とすれば、患者はどんな薬局を選ぶのだろうか?
やはり医療の中にも歴然とした競争が存在する。もちろん、健康保険の中では、安売りという価格競争ではない筈である。しかし、別の形の競争が、気が付かないうちに進行しているかもしれない。
米国とは違った形ではあっても、競争を意識しないで、のんびりとのほほんとはしていられない筈である。
§背景(3)
もう一つ、米国の薬剤師にはヨ−ロッパと違う点がある。ヨ−ロッパ中部の諸国では、薬剤師職業が古くから社会的に認められて来た歴史がある。近年になってサリドマイド事件などで、安心して薬剤師に任せられないのではないか、との指摘があったにせよ、職業としては安定した評価を得ている。
ところが、米国(特に西部)ではこうした歴史がない。19世紀の後半から急速に発展し、形が創られた社会制度の中でも、特別に初期から整備されたというわけではない。しかし、ドラッグストアは医薬品だけでなく、日用品の取扱いや喫茶・軽食などで、庶民の生活に欠くことのできない位置を獲得した。1950〜60年代に至り、この状態は都市からの人々の流出などでまたまた変化せざるを得ないこととなる。特に製剤化が進み、病院薬剤師を始めとして、薬剤師の医療での役割を否定する声が大きくなり、薬剤師職業の将来は多難を思わせるものがあった。
こうした事態で、カリフォルニアの薬剤師達の対応は、さすがフロンティアの人々と思わせるものがあった。(粕谷教授のレクチャ−参照、開薬研83、5月例会*1))
わが国の薬剤師職業は明治初年に導入されて以来、なかなかに医療の中に融け込めず、疎外された形となっている。薬剤師側からの主張は、主として医師の反対により、やりたくても仕事が貰えない、処方せんが出ないというのであるが、公平に観て、果たしてそれが本当か、疑わしい所がある。
19世紀のヨ−ロッパ流の教育を受けた薬剤師は、むしろわが国の医療にとって異質で、適合しない技術を振りかざしていたのではあるまいか、という反省がある。
カリフォルニアの薬剤師達が、近代化された製薬工場を背景にして、医療の中で従来とは全く異なった役割を獲得して行った過程を探ることは、わが国の薬剤師にとっても他人事ではない切実感がある筈である。これが米国、特にカリフォルニアに焦点を定めた理由の大きな要素である。
*1)クリニカルファ−マシ−の粕谷泰次教授(東京薬科大学)の講演の概要(1983年5月例会におけるもの、文責事務局)
1969年、UCSFに留学、現在東薬大の臨床薬学教室で、Clinical Pharmacyの研究と教育を実践的に手がけておられる粕谷教授から、カリフォルニアにおけるC.P.の歴史と考え方について講演があった。
冒頭、自分が教育を受けた頃と10年のギャップがある。C.P.が病院薬局にむいた考えかたである。そしてすでに現象面は日本に入り込んでいるので、皆様と私とではC.P.に対する考え方に違いがあるかもしれない。と前置きされた上で、
1) UCSFにおけるC.P.教育は1965〜66年にかけて始められた。12年間の小中高校教育を受けた後
1. 一般教養(最低2年間、4年間修学した者も多い)米国中のどこの大学でもよいが、薬学部へ入学するために指定された単位を取得している必要がある。
2. 専門教育(薬学部での教育)4年間
@最初の2年間は薬理、薬剤などの化学を中心としたカリキュラムが組まれている。
@専門教育3年目から化学教育と関連のあるClinicalな教育を行う。
@4年目になると、カリキュラムの中心は治療面に移っていく。
というように専門教育4年間で徐々にClinicalな分野へカリキュラムをシフトさせる方法で確立した。こうした教育を終了した人にPharm.Dの称号が与えられる。わが国では、教育年限の延長のみが論じられれいるが、現行の幅広い教育のメリットなど、内容的な検討も必要であろう。
自然発生的でないClinical Pharmacy
C.P.は初めから体系だったものではない。
何かをしなければ薬剤師の将来はまっ暗という当時の事情があった。一度は国民から、「お前たちがいなくても現に医療は進むのだ。」と見放された薬剤師が再生するために真剣な論議がされた。そして自分たちが治療に関わるためには医師との連携が重要であるとの認識から、医師と自分たち(薬剤師)の間に「患者」を介在させたというのが真相。
三者をつなぐものとして「Communication」が最も大切。
わが国では、いつのころから医師の真似ごとをするのがC.P.であるかのように受け取られている。
歴史・風土のちがい
加州は新しいもの好きで、同じ米国でも東部とはまた違う。加州でうまくいっても日本ではそういかないこともあろう。しかし、基本的な方向としてはIndividualization(個別化;患者をそれぞれに違う特質を持つ個人として対応する)に向かうのではないか?
医療の進め方
初めはDrug Therapy(薬物治療)におけるEvaluation(評価)が、がっちりできるように訓練し、さらにClinical Experience(臨床的な経験)から見て、医師の治療方針に意見が云えるようにArts(芸)とScienceを磨く。
学問的体系が出来上ってからでも、報酬が決められてからでもなく、いいと思ったことをただちに実行してみる精神に満ちている(例;プロトコ−ルに基づいた調剤、D.I. Analysis Service)。
*講演後の質疑応答を通じて、わが国でのC.P.は、言葉はあるが実感を伴わないこと、実態にそぐわない無理なことを今やっても、将来いい薬学にはならないこと。しかし、基本的に、治療の進歩につながると考えられることは、すぐに実行に移すことの大切さが強調され、こうした考え方こそがカリフォルニアのC.P.と理解した。 |
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