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解説 世界一の開局薬剤師
調剤薬局20年(1,1,1)
1985年4月

 
新しい薬局
 昭和60年の春から、文京区本郷の千駄木にある日本医大附属病院の前通りに、新薬局を開設することとなった*1)。 患者さんをはじめ医師、医療関係者の方々に信頼される薬局であるうえに、薬剤師にとっても働き甲斐があり、働き易い仕事場を造りたいと思い、構造、設備、機能、デザインに至まで、従来の形にとらわれることなく、新たに検討し直そうと考えた。これは調剤に焦点を絞った薬局を創り上げてみようと挑んだ20年前の状況と同じで、はからずも建設に取りくんだ当時を思い起こすこととなった。その間の経験を新薬局に生かすうえにも意義あることと考え、まず調剤薬局の発想・発端から調剤薬局の歴史を振り返ってみたい。
 
1) 調剤薬局の由来と経緯
 水野調剤薬局を開設したのは、丁度20年前(1964)のことであった。その頃は今と同じに、多くの薬剤師が処方せんの発行に関心を持ってはいたが、東大病院を除いては、殆ど処方せんが書かれなかった頃である。われわれ水野薬局を含めて、調剤といえば、積み上げた雑貨の陰の調剤室で、OTC薬販売の片手間仕事でやってくれる、というのが普通であった。これでは患者さん、お医者さんからの信頼が得られる筈がないとの反省からはじまった。
 こうした態度を捨てて、薬剤師が真正面から調剤に取り組んでいる姿を、形の上からも実現しようと、調剤だけに仕事を絞った実験的な薬局が調剤薬局である。売場のない薬局は、とても経営できる筈がないと思われていた頃である。なにぶんにも初めてのことなので、名前をつける段になって、それまでの薬局と区別するために、お役所から『調剤センタ-としたらどうか』などと云われたが、やはり薬局という名が捨て難く、水野調剤薬局と呼ぶこととした。こうした意図、意味が理解されずに薬剤師内部の反対のため、開局寸前にストップがかかり一年程開設の許可が下りないといったことがあり、その誕生は決して順調ではなかった。
 ところが10年程たった昭和50年代のはじめから、真正面から調剤に取組もうという態度が認められ、急速に普及しはじめた。 現在では調剤薬局という名の薬局は全国的に分布して、 殆どの地域で見ることができるようになった。『調剤薬局』は年々、数を増して次第に医療の中での役割を固めて来ている。処方せん発行の索引車としての役割を果していることは嬉しい限りである。
 この『調剤薬局』も一面から見れば、薬局の大切な役割の一部を放棄した、欠陥薬局といえるものであることを忘れてはなるまい。ところが、調剤だけに専念することが開局薬剤師としての理想だといった安易な考え方になりがちであるし、周囲からもそうした眼で見られることも多い。調剤だけに焦点を絞ったことで、真正面から、また真面目に調剤に取組むという姿勢を評価されるのは薬剤師として嬉しいことだが、調剤だけが開局薬剤師の役割ではないことを自ら理解し、何時も気に掛けていることが大切だろう。
 当時の考え方は『調剤薬局の構想』と題して雑誌『薬局』*2)に寄稿したが、この文章を読み返してみると、この辺の事情が明らかである。
 
2) 開局薬剤師が役割を失った時代
 戦後急速に復興した製薬工業は調剤用医薬品として原料・素材だけでなく、製剤を済ませた最終製品を供給するようになった。このため薬局の薬剤師は、それまでの散剤を秤量したり混合するに代えて、錠剤を数えたり、ヒ-トシ-ルをハサミで切り分けたりすることが仕事の中心となった。
 この変化は医師などから、製剤を袋詰めするぐらいの事なら誰にでもできると指摘され、薬局薬剤師はもはや医療での役割を喪失した過去の存在であるときめつけられる程に決定的なものであったのである。
 ところが、一方では、健康保険制度の普及により医療規模が急膨張して、旺盛な調剤需要が生れたため、病院薬局はたとえ袋詰め作業だけであっても存在理由があり、むしろ作業能率の向上に関心が集中した。こうした背景があったので、一部には薬剤師無用論も云々されたが、医療機関では量的に調剤が増えた為に、わが国の薬剤師内部では調剤する薬剤師の基本的な役割喪失があまり問題にされなかった。製剤化により、医療品製造により重い比重がかかるのは、工業化社会での必然の動きであり、薬剤師全体としての役割には変化がない、とりたてて騒ぐこともなかろうという位に考えられていた。しかし、多くの開業医師は、錠剤などの製剤をただ袋詰めにするだけなら、わざわざ処方せんを出すこともない、と考えたようである。
 処方せんの発行が伸びない理由について、当時は経済問題を重視して、薬価差益が大きいことが医師の処方発行意欲を削ぐ主な要因であるとされていたし、たしかに経済問題を度外視するわけにはいかないことも事実であった。しかし、問題はそれだけでなく、医療の中で明確な役割を見出すことができなかったことの方が、より本質的であったかもしれない。薬剤師が少し長期的な展望を持ったとするならば、実は医療での開局薬剤師の役割が、雲散霧消しかけたことの方が大問題であった筈である。薬剤師が処方せんの調剤をいくらやりたいと望んでも、多くの国民や医師達が、薬剤師に調剤を任せることに意義を感じなければ、それは決して受入れられないに違いない。
 
3) 開局薬剤師の役割の模索(1)
―――薬の社会的性質を意識する―――
 その当時(1960年代)は世界的に、薬剤師職業は脱皮を迫られていた。米国ではわが国よりはやく製剤化が進んだ為に薬局の薬剤師はもちろん、薬科大学*3)の教育内容を変えねばならないと真剣に対応策に取り組んでいた。ヨ-ロッパの幾つかの国でもサリドマイドのショック(1961年)から、どのように立ち直ろうかと模索を続けていた。開局薬剤師は「処方せんに従って正確に、手際よく、迅速に調剤するというだけでは済まない時代になった」との反省と認識は世界共通で、積極的に、自ら役割を問い直そうと、真剣な努力が続けられた。
 どんな職業でも、学問や技術の進歩、あるいは社会の変化によって、その職業の内容や職業像を変えて行かねばならない時期に出会うことがあるようだ。また、その変化の方向や時期を誤った場合には、かえって職業そのものが消滅することにもなりかねない危険が存在することも事実で、その危険の故に保守的であるのは、どの職業でも同じことであろうが、今にして考えれば、この時期に薬剤師職業は劇的な大回転を行ったのである。
 わが国の薬剤師は、調剤技術者として免許を受け、他に薬を売ることもできる、いうなれば調剤師のイメ-ジがある。ところが、それはわが国の特異的な見方であるようだ。スウェ-デンの薬剤師は法的な補助者として、薬局内の仕事を調剤士と薬局助手を使っているなど、ヨ-ロッパの薬剤師は調剤士のイメ-ジとは結び付かない。
 「薬」は人間社会に恩恵を与える貴重な物、との認識は世界中に共通であろうが、それだけではなく、扱い方を誤ると、社会に取りかえしのつかぬ程の害毒を及ぼし、多くの人々に被害を与えるというのも西欧社会の通念であった。
 このために社会は、専門の職業人を頼み、薬の良い性質のみを利用できるよう、行政のみに任せず厳しい規則を加え、慎重な取扱いを意図して、薬剤師職業を生み育てたのであろう。
 こうして育った薬剤師は、医療を行う医師をサポ-トすることを大切な役目としている、調剤技術者の立場で、医師に任せられて薬物治療を受け持つことは、決して小さくない仕事であるが、薬局を設けて、そこに薬の専門家としての薬剤師を置いた存在理由はそれだけではない筈である。むしろ、医師すらも薬剤師に書付を送らねば、薬を使えなかったと考える方が自然である。社会の中の薬の置き場が薬局であり、その管理者が薬剤師であろう。薬の害毒をまき散らさない、それが地域(社会)に「薬」の管理者、取扱い者を置く趣旨である。わざわざこうした特別の管理をせねばならない理由は、医師という職業の誕生になぞらえることができよう。「人」の身体が極めて精巧、かつ複雑であるために、その故障(病気)の修復(治療)には特別な職業人や学問が生まれ発達して来たように、「薬」の場合にも、他の物質(商品)と比較して、並はずれて複雑な性質を持つことから、(その社会に)特別の職業人が生まれなければならなかったのである。行政や、他の職業人の片手間仕事だけからでは、悪い性質を押え込むことのできない難しさのある物、それが薬であったという認識からすべてが始まっているのである。
 現在のわが国でも相変わらず薬の価格が「高過ぎる」のではないかとか、「にせ薬」の出現はしばしばマスコミに取り上げられるし、麻薬、覚醒剤中毒者は減るどころではない状況である。それは、まだわが社会が薬の悪い性質を上手に管理できないことを示していることではあるまいか。
 さて、薬の性質を大きく区分すると、
1. 社会に対する性質
2. 人体に対する性質
3. 化学的、物理的な性質
の3つに分けられよう。
 このうち 2.人体に対する性質は昔から医師によって調べられ、極められて来た。このため、成熟しない社会では、医師が薬の専門家であり、薬の性質を知っているので薬を管理することが、むしろ当然ともされていた。わが国では約百年前に薬剤師職業が生まれたが、医師の補助者として、主として 3.化学的、物理的な性質を学び、薬の分析、精製、製造を行うこと、および調剤の技術者だと認められて来た。
 このために、わが国では、1.社会に対する性質について責任を負う職業人は存在しないことになってしまった。その性質は深く掘り下げられることもなく、悪いことがあれば取締れば良いと、もっぱら行政に任せて、民間は知らぬ振りの態度である。そのために、いろいろと不都合なことが生まれている。医薬分業の制度は薬剤師の業権獲得運動位に見られて、処方せんの発行と同義語位に考えられている。実は薬の害毒から、その社会が逃れるための手段・方法だとは誰もいわない。
 薬の人体に対する作用でもない、化学的な性質でもない別の性質、社会で示す性質を挙げてみると、
1. いつの時代でも、どのような世界でも「薬」は人の命を救い(生命関連性)、苦痛を和らげるなど、人々の生活に不可欠(生存のための必需品)の物質(商品)であった。
2. 適量で有効であり、適量では害作用を表す(効果発現域が狭い)ので、良い品を選ぶこと(高品質性)、取扱いに熟練を要すること(要高技術性)が求められる。
3. 薬は人々の住む所、何処ででも(地域分布性)、何時でも(緊急性)、その望む品を(非代替性)、誰もが(要低廉性)手に入れられるように準備されなければならない。
4. 人の命を救う裏には、人の弱みにつけ込み、暴利を貧る(過度の収益性)状態を生み易いこと、品質の良否の判定が難しいため(要規格性)、偽物・偽和物(混ぜ物をしてうすめたもの)が横行し易い。
5. 害作用を悪用して毒殺などを目的として使用を防ぐ必要(要管理性)があるうえ、麻薬や覚醒剤中毒に見られる快楽を求める使用(耽溺性・依存性)も防がねばならない。
6. 一般に薬は変質し易く(経時変化性)、貯蔵、保管に細心の注意を要する。
 こうした薬の直接の効果と関係のない数々の、社会に害毒を及ぼす性質のコントロ-ルこそが、薬剤師職業成立の本当の狙いであったのである。薬の図太い邪悪な性質は、どのような社会でもちょっとした油断があるとすぐさま表面化してくる。
 薬が、薬剤師からだけでなく、医師からも、薬種商からも、多くのチャンネルから国民に供給されるわが国では、薬剤師にこうした責任を負わせることは不公平であるし、できることでもない。反対に、薬剤師の側からは他の取扱い者が存在するから、自分達で社会的な責任を負わなくても良いのだ、という安易な考え方になってしまっている。
 多くの国で薬剤師が薬の独占的な取扱い(医師すら管理できない)を許されている理由は、ただ薬剤師が薬を取扱うのに熟練しているというだけでなく、こうした社会的な責任を負って、国民に対して、安全な薬の供給を約束し、実行しているからに外ならない。
 わが国では、薬の社会的な責任を負う職業人が存在しない為に、品質の良い優良な薬が生産される一方で、にせ薬が売られる、薬の価格についての信頼がない、薬漬け医療と言われる等々、世間の評判がかんばしくないのが実情であるが、また致し方ないことでもある。
 薬は、その社会に住む人々に対して、何処ででも(地域分布性)、何時でも(緊急性)、その望む物(非代替性)を誰もが手に入れられるように(要低廉性)準備されなければならない、ということがまず第一の社会的性質とされる。この性質を満たすために、昔から世界の薬剤師達と行政担当者は様々な工夫をこらしている。僻地での開局を容易にするため、都市部の薬局に特別な経済的負担を課したり、患者数の多い薬局の開局時間(10時間を普通を定めるとするならば、患者数により、さらに4時間、8時間を義務付ける)の延長を行う、土曜、休祭日の当番制を行う等もその例である。また備蓄の薬品の最低限リストを定め、地域での水準確保に努める。もちろん、家庭用一般薬も含めて、全国共通の薬価を定め、暴利を貧ることのないような方策もとる、という具合である。ところが、わが国ではこうした配慮は全く忘れられているし、それを誰も不思議と思わない。
 この状態を抜け出して薬のより良い性質のみを利用する社会を創るには、わが国の薬剤師がただの調剤技術者としてではなく、薬の社会的な性質をも管理する職業人として存在するのだ、と名乗りをあげることが大切ではなかろうか。
 本郷地区で、開局薬剤師の役割の1つである、薬の社会的性質の管理への第一歩をふみ出そうと思い、そして第一には、上に述べた地域社会での充実した薬の供給から手を付けることが望ましかろうと考えていた。
 薬局薬剤師は住民に対して、
1. 何時でも→開局時間と夜間、深夜、休日対策
2. 望むもの→広範な薬品備蓄と緊急時の薬局間融通
を供給することができ、核となることのできる薬局が欲しいと考えていた。

4) 開局薬剤師の役割の模索(2)
薬の化学的、物理的性質を堀り下げる
 調剤では品質を守り、薬品の有効性を保ち、患者に危害を与えぬよう細心の注意を払うことが強調されていたことはいうまでもない。その最も本質的な医薬品の化学的、物理的な面についての改善に、調剤薬局を開設してから数年間にわたって取組んだ事柄に触れてみよう。
 開局薬局へ訪れる患者は、どうしても慢性病の場合が多い。このために、当薬局の処方せんは、てんかん、結核などの割合が多かった。
 てんかんでは、今でも使われている、フェニトイン、フェノバルビダ-ルの配合剤が主流を占め、1年間有効の処方せんが発行され、それを15日〜30日毎に分割調剤することが通例であった。この配合剤を連用すると、屡々副作用としてリボフラビンの欠乏症を起こし、口内炎、歯齦炎が見られる為に、リボフラビンか、昭和30年代に爆発的に普及した総合ビタミン剤(パンビタン等)が加えられるようになった。
 現在はフェニトイン、フェノバルビタ-ル剤や総合ビタミン剤も製剤化されているが、当時は散剤として調剤されていた為に、保存性の悪いことが問題であった。6、7月の高温多湿の頃は、一週間もたたないうちに、臭気を発し、変色、べとつきが始まり、2週間もすると、すっかり液状となってしまうことも珍しくなかった。
 試しに、デシケ-タに入れておくと殆ど変化がないことから、薬包紙で包むという、包装方法に問題があると考えて、防湿薬包紙を用いることとした。長方形の内側にポリエチレンをラミネ-トした紙を二つ折として、その間に調剤薬を挟み、周囲をヒ-トシ-ルしようというのである。丁度サンドウィッチや弁当のお手拭きパックを大形にした形である。現在発売されている分包機は、その頃はまだ姿を見せていなかった。そこで品川辺りの機械屋さんに頼んで、分包台を付けた包装機を製作してもらったのは、昭和35〜36年のことである。
 薬包紙に分包するよりは手間も費用もかかるが、確かに保存性は改善されたようで、患者さんからはポケットに入れて勤めに出られる、と好評であった。しかし、それでも季節によっては、一週間程で変色の起きてしまうことがあった。はじめは、包装紙の材質に問題があると考えて、様々に改良を企てたが、たいして効果がない。むしろデシケ-タに入れると従来の薬包紙よりも成績が悪いことが判って来た。
 これは、外から水分が侵入するのではなく、初めから調剤された薬が湿っている、水を含んでいること以外に考えられない。早速、賦形剤の含水率を測定した所、なんと12%もの水分を含んだ乳糖を使って調剤していたことが判って来た。賦形剤を乾燥させて使った所、極めて良い結果が得られた。
 有効成分の良し悪しには十分注意した積りではあったが、意外な所に落とし穴があることに気が付いたのもその頃のことである。
 また当時の局方品と云われる医薬品の中に、かなりの粗悪品が売られていたものである。硼酸水を作った所、仲々に溶けないのでろ過してみた所、ろ紙が黒くなる程に汚れた上に、不溶の異物が残された、などは決して珍しいことではなかったと記憶している。
 こうした医薬品をそのまま使っていたのでは良い調剤にならないと、薬剤薬局で調剤の原料となる医薬品の試験や精製を始めてみた。
 一方、製剤の数が多くなったとはいえ、開局薬剤師の眼からみると十分とはいえない所があった。
 当時はまだ結核の患者が多く、パスやイソニアジドの調剤が少なくなかった。1日10gものむパスでは粉末や顆粒ではのみ難い、どうにかならないか、という訴えが強かった。錠剤に代えるにしても、市販の糖衣錠は0.25g/錠で1日分が40錠となる。これだけの数をのむのも問題だし、崩壊度に問題があるようだった。試しにパスでは18錠/10gの錠剤を造り、イソニアジドでは100ミリg錠(市販品は50ミリg錠)を試製した所、患者からは大変に喜ばれた。その他保存性が悪くて製剤とならないものを少量宛予製しておくこともまれではなかった。
 こうした仕事が軌道に乗って作業が増えてくると、新薬局は狭くて日常業務に差支えが出て来た。作業場を独立させるため、適当なスペ-スをやりくりしようと考えて調べてみると、また問題、難題が出て来た。薬局と同一建物の場合には、法的に薬局の付属施設と認められるが、独立した建物では薬局と全く無関係と見做されることがわかってきた。つまり、われわれの考えた作業場は薬局ではなく全く別の組織体で、いうなれば製薬会社としてしか認められないのであった。新しい調剤薬局を設けた為に旧薬局(200m程の距離がある)の施設を試験、精製のために使えないということである。随分と馬鹿ばかしい話とは思ったが法的な規制とあっては仕方がない、製薬会社を設立しよう、ということになった。
 しかし、独立した製薬会社で収益をあげられるのか、全く目算が立たなかった。それは、調剤で使う乳糖やデンプン、また輸液等に使う塩類のような低価格の医薬品をいくら良質な医薬品とした所で、高く買ってくれる所があるとは思えなかったからである。その頃、乳糖は500gで100円もしなかったと記憶している。それを原料を吟味し、含水率や粒度を調整するとその10倍、500gで1,000円を超える価格になってしまう。これでは誰も買ってくれないに違いない。
 ところが一方では、毎日の調剤で原料の質が悪くて困っている、放っておけない、という所からとにかく10年位は、原料の精製、医薬品試験、そして幾つかの製剤のノウハウを得るためだけを考えてやってみようと決心したのが昭和41年(1966)のことである。
 マイズとはMIZUNOの頭から3文字MIZで製薬を目的とする株式会社として設立した。宇都宮市郊外の雀宮にある関東農薬雀宮工場の一画の1,000平方mを借用することが出来たので、施設設備(約100平方m)を造り、製薬会社として発足した。
 われわれにとって調剤薬局の作業場であり、そして法的には製薬会社であるマイズCo.はまず調剤に用いる原料となる医薬品を片っ端から試験するということから仕事を始めた。
 案の定、硼砂に300ppm以上ものヒ素が含まれているのを見付けたり、(第1回日薬学術大会で発表した)*4)市販の総合ビタミン剤(散剤)のアスコルビン酸等の含量の測定を通じて、バラツキの大き過ぎることなど知ることができ、薬剤師としては有益な体験をしたと思っている。
 昭和45年、当時吹き荒んだ学園紛争に巻き込まれた東薬大の理事長を引き受けるまでの数年間は、このマイズで調剤に用いる原料薬品の試薬と精製、さらに調剤をするなど、調剤用薬品の品質向上に努力を重ねた。
 昨年、栃木県薬務課の佐藤技官に久し振りで会った際に、『まだGMPを云われない頃からその考え方を採り入れたマイズは、順調に進んだらGMP実施で栃木県第1号になったでしょうが、残念なことをしましたね。』といわれた。
 東薬大の学園紛争が深刻となると同時に、八王子移転事業が進んでいた昭和40年代の後半は、残念ながらこのマイズでの仕事を休止せざるを得なかったのである。
 
5) 開局薬剤師の役割の模索(3)
 全体から個体へ、情報の重視
 薬そのものを純粋に、かつ使い易くしようという努力以外で、浮び上がった問題がある。最近の学問と技術の進歩からすると、個々の患者についての薬の有効性と安全性について、医師はもちろんのこと、薬剤師ももっと関心を払うと共に慎重な取扱をすべきではないかという点に、(特に米国の)薬剤師仲間の話題が集中するようになった。
 調剤薬局に待合室を設けて、注意深く患者を観察するようになると、調剤薬による薬物アレルギーや副作用の疑いのある例は、毎日の仕事の中でしばしば見付けられることが判ってきた。調剤する薬剤師として、もっと患者の身になって仕事をしよう、この点こそ自分達薬剤師の今後の社会的な、第一義的な役割とせねばならぬ所であるとの意見と提案には共感共鳴する所が大きかったのである。世界各国の、役割を失ったと危機意識を持つ薬剤師達は、供給という仕事を通じて、薬を『物質』とみる『眼』を、『患者』に向けはじめ、いうまでもないことながら、薬の有効性と安全性をそれぞれの患者について守るとの方向を選ぶこととしたのである。
 この変化は薬剤師の内側でも大問題であった。従来の意識、つまり物質を主とした薬学になじんだわれわれには、患者(人間)を主に考える、それが薬学であるという考え方は仲々に納得できないのもであった。音楽でいえば、これまで良い音の出るピアノやバイオリンなどの楽器を造り、供給する製作者の立場であった人達(薬剤師)がその立場を製薬会社に譲り、作曲家(を医師とすれば)によって指示された、楽譜によって楽器を演奏する音楽家になろうとする程の変革であったわけである。この演奏家としての薬剤師を養成しようとした一例が米国大学のPharm D.コ-スである*3)。伝統的な薬学の殻を破って、医療の中で薬剤師の役割を新しく創出しようとする意欲的な試みが、患者志向薬学(Patient Oriented Pharmacy)またの名をクリニカルファ-マシ-(医療薬学)と呼ぶ薬学の誕生をもたらしたのである。
 薬剤師の薬物治療への踏み込みが、順調に進むとは限らないのは薬剤師内部の問題だけではない。最大の難関は医師の反対、或いは理解の低さである。この方面を志向する薬剤師が、世界中で例外なく何時でも、また何処でも出会う難関である。この新しい薬剤師の仕事は医師の診療、特に薬物治療の水準の向上に繋るものであり、さらに薬剤師のこの分野での活動が医師にとっても極めて便利であり、役立つうえ、さらには欠くべからざる助力者となるものであるという認識を医師が持つまで、実際の証明を重ねながら、ねばり強く積極的に医師に接触して、医師の理解を求める努力を続けることによって、次第に認められて来るのが普通である。
 カリフォルニア大のPharm D.コ-スに留学中の長男(善郎)によれば、その卒業者は他の学部の2倍に近い年俸4万ドルで引っぱりだこであるといわれる程になり、特に大病院では重要なスタッフとなっている所が多くなっているという。わが国でも、この数年病院薬剤師の間で活発な動きがあるようだが、昭和50年代の始めまでは先輩諸氏の諸外国の事情の紹介が行われたにとどまっていた。
▽ 仕事の見直し
 意識としても大きな変化であったが、もうすっかり仕事として定着した調剤の実務を変えることもまた実際の仕事での問題であった。健康保健の制度の普及と共に、短期間(最長14日)の処方せんが普通となり、再調剤(3ヵ月、6ヵ月など長い期間有効な処方せんを半月分などに分割して調剤すること、高血圧・てんかんなど慢性疾患の場合に行なわれる)を実質的に禁止された形のわが国の調剤は、次第に刹那的な取組みをするようになり、処方せんは法的な規制があるから保存しておくだけで、その記録を次の調剤で利用することはなくなってしまっていた。
 医師が病歴を参照しながら診察するという形は、薬局では行えなくなったのである。慢性疾患の場合に再調剤が普通であった時代は、その患者の処方せんを検索してから調剤が始まるので、どうしても薬歴管理が必要となるが、1回限りの処方せんでは、どうしてもこの点がなおざりになってしまうこととなる。
 さらに、わが国の場合に致命的であったのは健保の請求事務である。月毎の繁雑な請求書の作成のために、処方せんを薬局(調剤室)で管理できず、一定期間事務(室)に預けてしまうことになると、実際上処方せんの検索は不可能となる。
 昭和40年代の始めに、わが水野薬局で苦い経験をした。厚紙の患者別処方せん台紙を印刷し、患者毎に処方せんを貼り付けて、患者記録として管理しようとしたことがある。ところが、これは見事に失敗した。請求事務が混乱して健保請求が円滑に進まない。請求事務に都合が良い方法をとると患者の検索に時間がかかり過ぎて、調剤面の障害が生れるという具合で、自(私)費の場合を除いて、中止せざるを得なかった。この失敗を調剤の立場から分析してみると、患者記録の管理はコンピュ-タ-にやらせる以外にない、という結論になった。ところが、当時は開局薬局で買える程コンピュ-タ-は廉価でなかった為に、価格の下がる適当な時期まで待たねばならなかったのである。
 ▽ 開発の動機
 石油ショックなど、幾多の苦難を経て、東薬大八王子キャンパスは完成しようとしていた頃の事である。新しい入れ物(建物)で行う薬学教育はどんなものになるか、理事長としての立場で、真剣に対処せねばならぬ課題であった。
 一方、昭和49年の新潟で開催された日本薬剤師会の学術大会は異様な熱気に満ちていた。それはその年の10月1日より、医師の処方せん料が倍増され(50点)、それまで処方発行の最大の阻害要素と云われてた医師側の経済問題が大幅に改善される見通しであることが伝えられたからである。いよいよ分業だ、と興奮する開局薬剤師の中に混じって、わが国では未だに開局薬剤師の新しい役割が再構築されずに放置されており、近い将来、ただ製剤を袋詰めする位にしか評価されない薬剤師に対して、高い費用を払うことが問題となるであろう。その点について殆ど誰もが関心を持とうとしてくれないということから、一緒に喜ぶ気持にはなれず、むしろ反対に気が滅入るばかりだった。
 今でも、その時の印象は鮮明に思い出すことができる。それは、今後10年間は処方発行は順調に進むだろう、しかしハサミでヒ-トシ-ルを切るだけの調剤を続けていれば、10年後には、『何故処方を出さねばならないか』『国民のメリットは何か』といった議論が盛んになり、壁につき当るだろう。昭和50年代こそが、将来処方せんの発行が伸びて医薬分業制度がわが国に定着するか、或いは価値なしと評価されるかの岐路となるに違いない。この10年の勝負どころをどのように活かして開局薬剤師の役割を創り上げるか、これは大変なことだ、すぐにも着手しよう、ということであった。
 その頃、東薬大では医療薬学の研究室を創設したい、という動きがあった。望む所と思う反面、問題でもあった。それは、医療薬学の本質について、殆ど誰もが理解していないようであったことである。多くの人々は、これまでの薬学は医療から無関係ではないかとの指摘に対して反発して関心があることを示めそうとしており、医療に近い薬学、医療に向いた薬学として医療薬学を頭に描いていたように思われる。
 実は既に述べたように医療薬学は、極端に云えば、『物質』の薬学ではなく、『情報』の薬学であろう。この大きな違いを認識して医療薬学の本質を掴んでから、拙速でなく、確固とした医療薬学を創り上げようと云い出して、物議をかもしたのはこの頃の事である。
 本質を理解してもらうのに、言葉や印刷物だけでは無理で、実際の仕事で示すことが必要ではないか、それも10年以内という期限があるではないかと考え始めると、矢も楯もたまらず薬局の実務に帰りたくなった。水野調剤薬局で患者志向調剤を実行しようと、薬局を放置できないことを理由に理事長を辞めさせてもらったのは、八王子キャンパス竣工の翌月であった。
▽ 開発への着手  コンピュ-タ-が大きく、かつ高価な装置であるという時代が過ぎようとしていた。
 人間を月に送り込むという宇宙計画などが、半導体工業を急速に進歩させていた。マイクロプロセッサ、半導体メモリなどが実用化され、近い将来には100ドルのコンピュ-タが売られるだろう、といった予想が専門誌に載るようになって昭和は50年代を迎えた。
 いよいよ、開局薬局でも個人別患者記録の台帳をコンピュ-タの内部に造れる時代がやって来るのは確実となった。
 そこで、昭和51〜52年はコンピュ-タの基礎を勉強した。週に一度の局員研修会で情報科学の初歩を話し合うことを始めた。引続いて高校時代(旧制一高)の同室の先輩である慶応大学工学部管理工学科の浦教授が協力して下さるようになった昭和53年からは勉強も軌道に乗った*5)。そして昭和54年の暮れには調剤システムが完成し動き始めた。患者台帳のコンピュ-タ化である。
 実際にコンピュ-タを使って仕事をはじめて驚いたこと、苦労した話はそれこそ数多くあり、苦い薬剤師諸君が毎日新鮮ですね、と朗らかにしゃべったことが忘れられない。つまり、トラブルの起きない日は1日としてなく、毎日毎日がその対策に追われ通しだったのである。単味のカプセルの患者さんを待たせてしまい、「お宅の薬局ではこのカプセルも自製しているの」と皮肉を言われたり、さんざんであった。しかし数ヵ月を過ぎて、それなりに仕事が安定してくると、なる程コンピュ-タと言うのは凄い力のあるものだということを
実感するようになった。
 それまで2〜3人の事務員が1ヵ月もかかって書き上げていた請求明細書は、数時間で打ち上がるのは、当たり前とはいえ威力であった。
 その分の労力を処方せんの受付で患者情報の収集に費そうとの意図は、次第に実現しはじめることとなった。
 調剤薬局を始めてから20年はこうして過ぎた。この間には、まだまだ書き留めたい事がいろいろとあった。例えば、ほとんど東大病院だけであった処方せんの発行が次第に一般化してきて、本郷地区の開業医の先生からの要望で、二つのサテライト薬局を開局したり、慢性病の比重が大きくなり、診療間隔が短いわが国の習慣が問題となったりした。
 ともかく、様々な事が起きた20年であったが、その中で、処方せんの発行は年々着実に伸びて行ったのである。
 
2 新薬局の設計
1) 薬局建設の骨組みをつくる
 新薬局は6階建てマンションの1階部分で、約160平方m(約50坪)の面積の店舗用スペ-スである(図1)。家主の松角家は法律家であった先代から、この地にお住いの旧家である。借用を申し込んだ所、快く承諾された上、種々の助言まで頂いた。
 さて、矩形のスペ-スをどんな薬局としようか考えていた或る日のこと、大森暢久医師の岳父にあたる故加藤勘中十氏の7回忌の法要で黒川雅之氏と同席する機会に恵まれた。氏は故加藤氏の末娘加藤タキさんの夫君で、大森夫妻の義弟に当たる建築家である。丁度、ニュ-ヨ-クでの個展から帰国されたばかりで、誠に多忙の様子であった。ところが、この計画を話し、『調剤薬局』なるものを初めて造ってから20年、その間の変化、経験を基礎に、過去にとらわれずに新しい構想で独創的な薬局を設計して頂けないものか、とお願いした所、直ちに快く引受けて下さることとなった。
 その後、何回か黒川氏と打合せを重ねた。何世紀もの伝統を持つヨ-ロッパの薬局と薬剤師の移り変り、米国の薬局、わが国の現状などについて説明し、薬剤師の仕事の概念を掴んで頂くことからはじめた。薬局薬剤師の仕事の本質について十分に理解して頂いた後、矢つぎばやにプランが伝えられるようになった。こうして建設に取組む手掛りができ、骨組みが造られていった。
 
2) 新薬局の基本的な構想をまとめる
 20年前に始めた調剤薬局は既に書いたように、先ず調剤について医師と患者の信頼を得よう、という発想から始まっている。日本薬剤師会は処方せんの発行は年に1億枚を超えたと発表していることからも、その目標は相当程度達せられたと考えている。
 しかし、未だに問題は残っている。外来患者に院外処方せんを用いることに、釈然としない何かが残っていることも事実であろう。この感じは医師や患者だけでなく、薬剤師自身にもあるもので、放置しておけない事柄に違いない。
 新薬局を開設するに当って、この辺を整理してみたいと考えた。
 20年前とは新幹線が走り始め、東京オリンピックが開かれた頃である。20年を経て、わが国の社会の変貌の度合は誠に大きい。医療の面でも、人生50年が80年にもなろうとしている。その中で、薬の社会的な評価は相変らず高くない。その間に、医薬品の製造承認の制度が厳しく変えられて、現在のわが国はおそらく世界中で最も優れた制度を持ち、GMPによって医薬品の品質は飛躍的に向上したにもかかわらず、である。いまだに、医師を含めた国民各層には、薬は医療の収益物(商品)といった考え方が根強く残っていることも見逃せない点である。
 やはり、薬剤師の薬への姿勢に一番大きな問題があるからに違いない。先に分類した、薬の3つの性質を見極めて、新薬局の構想を固めて行こうと決心した。
▽ 地域医療への貢献
 その第1は、薬の社会的な性質のコントロ-ルである。もちろん、この仕事は社会全体で取組むのが本当であろうが、個々の薬局、もしくは小さな地域から始められないこともない。それは、
1. 緊急性
2. 地域分布性
の改善である。この2つは極めて密接な関係がある。特に薬物治療(院外処方せん)の場合に、或る病院・医院(医療機関)で出された院外処方せんを、患者の住む地域(行動範囲内)の患者の望む薬局で、何時でも処理できることが肝要である。
 実は、処方せん発行に関する地域の医師と薬剤師の話し合いは、何時もこの問題で衝突することに決まって居り、医師側は「地域に十分整備された薬局があれば、処方せんを発行する」と言い、薬剤師側は「処方せんが発行されれば、整備される筈」と主張して、卵が先か鶏が先かの水掛け論に終わることの繰返しであった。医師の要望も無理はないが、薬剤師の側の主張も、変質しない薬品ならともかく、現在のように抗生物質をはじめとして有効期限、使用期限が3年、5年と定められた医薬品の多くなっている実状からして、やみくもに在庫(備蓄薬品)を増やすことは、薬局に不良薬品が山積みされる結果となり、好ましいことではないのも事実であった。
 幸いなことに、本郷地区は東大病院をはじめ、処方せん発行を行っている基幹(総合)病院や開業医もあり、整備された薬局も少なくないことから、薬局間の医薬品の融通は古くから行われていた。各々の薬局にはそれぞれ特長があり、その分野での医薬品備蓄は相当に充実しているわけである。
 こうした実態を背景として、本郷地区の開業医のうちには、付近の薬局の薬学的サ-ビスが十分ならば、処方せん発行に踏み切りたいとの意向を持つ人々も増えている、というのが現在の状態と理解している。
▽ 地域の医薬品備蓄の充実に努める
 このため、本郷薬剤師会(倉本鉄司会長)では数年前から活発な動きがあった。新薬局も、医薬品の融通、頒布の面で協力することとした。
具体的には、
1. APO-Sに附加機能を持たせて、(イ)頒布の数量的管理と(ロ)外被の表示を印刷させる。
2. 新薬局に患者の出入りとは別に通用口を設けて、この供給サ-ビスを行う。(口絵 写真)
3. 薬剤師会は必要な伝票、外被(袋)を作成して供給する。
4. 薬品代は薬剤師会を経由して処理する。
などが骨子である。
 さらに緊急時(夜間、休日等)の対応が問題であった。夜間の受診、特に往診時の薬物治療を円滑に行うことに、薬局薬剤師がどれだけ協力できるかが、医師の処方発行の鍵となっていることもあった。
▽ 何時でも調剤を受けられる体制をつくる
 病気が通常の勤務時間(9:00〜17:00)だけに起こるものではないことに加えて、最近は、慢性疾患の患者から、自分達の勤める時間以外(例えば夕食後、土曜日)に診察を受け、薬をもらいたいという希望が強くなってきている。それに応えて、医師側も配慮しようという動きが見られるようだ。薬剤師側には、未だ地域として対応する機運は生れていない。
 現在の水野調剤薬局での対応はこうした医師の要請に応えて、日曜、休日は閉局しているが、
1. 閉局中は各薬局前に、緊急の場合の連絡先電話番号を掲示している。
2. 付近の開業医が休日診察を行う場合には、その前後を含めて臨時に開局することとしている。
 閉局中は緊急用として薬局正面に連絡電話番号を掲示しているが、患者よりの電話は処方せんの調剤の求めばかりではなく、その連絡のうち主なものは、
イ. 前週に通院できず、薬がなくなってしまった。
薬局には前処方の記録があるだろうから、どうにかして欲しい。
ロ. 他の病院、薬局で薬を貰っているが、閉まっている。見本があるからそれと同じものを分けて欲しい。
ハ. 医師の往診先から、DIを含めての処方作成とその指示
ニ. 前週に処方せんを貰ったが、薬局に行きそびれているうちに日曜となった。
ホ. 覚醒剤、麻薬常習者、或いは、暴力団関係者とおぼしき人々からの問合わせ
ヘ. 常に問題を起す患者(Problem patient)よりの連絡
ト. 赤ちゃん用粉ミルク、紙オムツが欲しい。
チ. 休日診察をしている病医院の住所、電話の問合せ
等々である。イ、ロ、のように、医師との連絡が必要で、薬局だけで処理しえないものであるとか、ニ、ト、の利用者の怠慢によるものも含まれる。特に連休や暮・正月の問合せは、件数は多くとも、解決し得ないものが少なからずある。なかには、からかい半分、面白半分の問合せがあり、「ふざけるな」と大声をあげたくなる程であり、わが国の社会教育の程度の低さ、社会の成熟度の足りなさを実感させられることもある。
 だからといって、日曜、休日を放り出すわけにはいかない。開局日を増やし、開局時間を延長することは、地域住民にとっては都合の良いことであろうが、薬剤師の側としては、勤務体制を厳しく変えることになる。また、調剤の準備をすることは、運営費の増大にもつながり種々の面でかなりの犠牲を払わねばならない。このため、北欧などでは薬局の規模、効率などを勘案して開局時間を割当てていることは既に述べた。地域として、本格的な処方が発行されていない現在では、開局時間の延長は、ただ出費の増加だけで終ってしまうことにもなりかねない。しかし、一面からみれば地域住民の便宜がはかられなければ、処方発行が本格化しないことにもなろう。そこで本郷地区の中部、南部に散在するわれわれの4薬局(東大病院前・たつおか・ねづ・にしすが「日医大前」)から先鞭をつけようと考えた。
 内容は、これらの4薬局のうち少なくとも1局が、
a 平日の開局は午前8時から午後8時まで、
b 土曜日 午前8時から午後3時まで、
c 日曜 祝祭日(国民の休日)
に開局しており、夜間・深夜の緊急調剤に対応し得る状態を創り出そうというのである。
 これには勤務する薬剤師諸君の協力がなければ不可能であるので協力を求めると共に、新薬局の設計にもその場合に備えて十分な連絡と通信ができるよう配慮し、さらに、新薬局に隣接して部屋(Annexと呼んでいる。)を宿直のために確保した。
▽ 品質確保の為に
 さらに、医薬品の品質試験のうち、一般に問題とされるのは、薬局で貯蔵中の経時変化である。ところが、長時間保存した残り少ない医薬品の試験をすることは、経済的にいえば、割が悪い。ただ捨ててしまった方が実際的といえよう。この様な場合には、われわれの薬局では、捨てることにしている。
 だから、薬局での医薬品試験は不必要だ、とは一概に言えない。新しく入荷した際の試験は重要であり、社会的にも大きな意味を持つことになる。
 新しく入荷した糖衣錠の色が違うように感じたので、ル-ペで調べてみたら、糖衣錠の表面が細かく「ひび割れ」していたとか、クリ-ム剤のチュ-ブを押し出してみたら、成分が結晶となって分離して、皮膚に延ばすと「ザラザラ」と手応えがあったなど、製剤にでき不出来は、意外とあるものである。
 こうした場合に、その包装の薬品だけでなく、その製造ロットの全部に問題が及ぶもの、と考える方が自然であろう。薬局の薬剤師は、こうした故障を発見したら、直ちに製造会社や卸屋に連絡して、そのロットの製品が使われる以前に、適切な処置がとられるよう、働きかけねばなるまい。
 医薬品そのものが持っている社会的な性質故に、不良医薬品が使われぬように努力するのは、薬局薬剤師の社会的な役割の1つであるし、ちょっと注意深く毎日の仕事に取組んでいれば出来ることである。そして、この種類の医薬品試験は普通大袈裟な道具立てを必要としない。五官(五感)試験、ル-ペの使用位でかなりの事ができるという特長がある。
 新薬局では、われわれがかつて昭和40年代にマイズCo.で蓄積したノウハウとも言うべき数々の経験を生かせるよう調剤室の設計に留意することとした。
 
3) 新薬局の重点
―――Computerized pharmacy―――
 調剤薬局を開設した20年の反省と経験が、おのずと新薬局のアウトラインとなった。なかんずく中心に据えられた考え方は、情報の重視、いうなれば情報化である。
 薬局薬剤師の実務の中で、これまで殆ど関心のなかった患者情報を収集し、整理、管理、検索しようというのである。開局薬局では、患者の待時間の制約が厳しいうえ、患者も薬剤師に『話す』習慣がない。薬剤師自身がこの仕事に習熟するのはもちろんのこと、薬局の施設、設備に工夫をこらして、話しやすい環境をつくらねばならない。
 さらに、医薬品の知識についても、その物質としての性質だけでは不十分となってきている。使い方、使われた成績などの情報がむしろ重要であるとされてきている。
 これらの変化が将来も続くことを考慮すると、薬局とはただ薬を扱う場所であるだけでなく、医薬品をはじめ患者の情報の受け渡し、情報の管理を行う場所でなければなるまい。
 もちろん、薬の無い調剤があるわけではないので、従来にまして正確で手際の良い薬の扱い方を求められることはいうまでもない。
 こうして、新しい薬局は『情報を中心に据えた薬局』というイメ-ジで構成しようとの考えが固まって来た。われわれの調剤システムAPO-Sは調剤に関して、かなり広汎な機能を持っているので、これを薬局システムに拡張することによって、情報処理の中核にしようと決め、その作業に着手した。
 薬局でのコンピュ-タ利用というと、誰でも作業の能率化と早合点しがちである。誰でも、溢れる程ある仕事、大量の仕事を能率よくさばくため、即ち、事務の能率化をはかるためにコンピュ-タを使うものと思うに違いない。しかし、われわれのコンピュ-タ利用は、本質的に違った方向を目指している。つまり、手作業では不可能な仕事を薬局実務に採り入れる為にコンピュ-タを使うのである。
 たしかに手作業でも患者情報の管理はできないことはない。しかし、われわれの場合は過去の失敗の経験と反省から、コンピュ-タ利用に行きついたのである。事務能率向上を目的としたコンピュ-タ利用と根本的な相違点はここにあると思っている。
 ともあれ、コンピュ-タを中心に置いた薬局、つまりComputerized pharmacyを創り上げようと試みることとなった。
▽ コンピュ-タは何をするか?
 APO-Sは大別すると次に挙げる4つの機能をもっている。
1. 臨床薬学的な援助機能
2. 薬局、調剤業務処理機能
3. 事務処理機能
4. 統計作成機能
これらのうち、重要と思われる事項について述べよう。
イ. 臨床薬学的援助機能
 患者志向(Patient Oriented)調剤を行うために必要な情報を管理する機能である。
a 患者情報管理
 1度でも調剤を行った患者すべての個人情報を患者から聞き出しておき、整理、管理する。その内容は、薬物治療に必要な左記の項目である。
特異体質(薬物アレルギ-)
既往症
家族既往症
職業特性
生活習慣(含餌)
重要な医薬品の服用記録(6ヵ月間)
メモ 内容や長さに制限なく、患者との会話の中から、重要と考えられるものを適時、適切に入力できる。参考資料
・ 家族医の氏名・電話
・ 勤務先、自宅の電話
・ 保健の記号、番号 その他
 これらの情報は何時でも参照可能であるうえ調剤録(後述-チェックリスト)に印刷される。この情報は消されることがない。
b 薬歴管理
処方せんのコピ-を一定期間保存する患者を呼び出すと最終処方(日付の逆順)から順に自動的に端末に表示される。
c 調剤録(チェックリスト)作成
患者情報と抽出薬歴をチェックリストとして調剤の毎に印刷し、薬剤師は処方せんだけでなく、このチェックリストを参照して調剤を行う。
d 服薬指導
処方せんの受付と、調剤薬交付の際に、(CRT上で)患者情報を参照しながら服薬指導を行う。
さらに、その際に起こり得る副作用情報を表示する(計画中)
ロ. 薬局、調剤業務処理機能
a ラベル印刷
その患者の調剤薬に貼布するラベルを剤毎にプリントアウトする。
b 在庫管理機能
在庫管理用リスト(置場所別、メ-カ-別、アイウエオ順など)をプリントアウトする。有効期限切れや不良医薬品の検索に威力を発揮する。
ハ. 事務会計処理機能
APO-Sに入力された情報を事務会計処理に用いる。
a 会計処理
日計、月計表をプリントアウトする。
b 請求書作成
レセプト、総括表をプリントアウトする。
c 支払管理
卸問屋別の仕入明細、集計表をプリントアウトする。
 以上がAPO-Sシステムの概要であるが、新薬局のシステムには、この他に、患者呼出の機能や、薬局向けの医薬品融通用薬袋プリント機能などを付加してある。
 4)新薬局の基本的プラン
 20年前の調剤薬局は木造住宅の改装であった為に、柱はステイン塗り、カウンタは木目を生かし、壁面はやわらかいベ-ジュを基調とした、住宅の雰囲気を持った薬局となった。このため、外から待合室をのぞいて喫茶店を開く積りの改装に違いないという噂があったそうだし、飛び込んだお客さんからコ-ヒ-の注文を受けたこともあった。
 造った側のわれわれも、薬局らしからぬ薬局に患者さんがなじんでくれるかどうか、心配であった。いざ開局してみると案に相違して、患者さんには好評であった。
 医療機関は一般に清潔感を強調するために、壁面などに『白』を基調色とすることが多いが、一面では、スタッフの白衣を含めて、患者の心理に相当な圧迫を与えているようだ。薬局が病院と違った雰囲気をもつことによって、病院では話せなかったことを薬剤師が聞き出すことができれば、医療に好都合であり、医師を援助することにもなろう。
 こうした発想から、患者さんからみた新薬局は、『白』によって清潔感を強調しないこととした。そして、薬局と薬剤師に対して親しみを持ち、信頼できる雰囲気をかもし出すために、ヨ-ロッパの薬局にみられる、伝統的な、古典的な形式もとり入れよう、ということとなった。
 黒川氏との会議では、こうした薬局の基本的な考え方を氏に理解してもらえるように、何度か話題にとり入れた。
 ▽ Offizinの構想
 近頃は、世の中が合理的になったというのだろうか、建築の契約にしても驚くことが多い。なかでも、タ-ン・キィ契約はしゃれていると思う。請負会社が設計者の意図通りの建築をするのは当り前だが、竣工して、依頼者(建主)がキィを渡されて建物の中に入ると、もうその時点からすぐに仕事ができるように、すべての備品まで備えられているというわけである。
 このやり方は、たいへんに魅力であったが、残念ながらわが薬局では無理のようであった。薬局のOffizinという場所は、ヨ-ロッパでは伝統的であるが、わが国の設計家や建築会社には殆どなじみのない施設、設備である。このため、すべてを黒川氏に任せるのではあるが、Offizinについては、われわれ薬剤師が働き易いよう自分達で構成し、それを黒川氏の設計に取り入れてもらうこととした。
 薬剤師側で留意した主な点を次に挙げてみよう。
イ. 薬剤師は運搬用機械ではない。
Offizinが充実して、薬剤師が種々の器具・機械を使うようになると、薬剤師はあちらこちらへ移動して仕事をしなければならなくなる。ことに、何人かの薬剤師が仕事を分担するようになると、処方せんや調製した薬を持ち運ぶのに、存外の労力を要することとなる。20年前にも指摘したこと*2)であるが、薬局を機能的に作ると同時に、適切な処方せんや薬の運搬具を使うことが必要である。
 われわれは20年前に設計した薬局で、ベルトコンベアを使ってみた。たった3m程の長さであったが、薬剤師が移動しないという点からみれば、思いの他有用であった。
 黒川氏にその経験を伝えた所、建築家らしい興味を示された。薬剤師の働く場所を分類して、それらを有機的に結び付けよう、というのである。20年前の調剤薬局も、特に意識はしなかったが、作業と働く人達の流れが衝突しない工夫はした積りである。今回はその辺をもっと整理してみよう、としてできたのが(図N)である。
 ロ. 働く薬剤師が見えるかどうか?
  薬剤師と患者の間の関係については既に指摘した通り、できる限り密接であることが望ましい。薬局の雰囲気はもちろん、信頼できる薬剤師の態度と、会話は欠くことのできないものである。
 ところが、仕事をする薬剤師の総てが患者に見えるのが良い、とも云えない。例えば、医師と連絡している姿や声は、患者に無用の不安を起すことが多い。監査業務も同様で、薬を一つ一つ改めている姿を見せることは、全ての患者に信頼感を持たせることにはならない。かえって不安に感じる患者もある。
 現在の薬局構造設備基準は調剤室にガラス窓を設けて、働く薬剤師が見えるように設備することを義務付けている。アムステルダムの売春宿の飾り窓ではあるまいし、何時も薬剤師が見える必要はなかろう。
 たしかに患者の立場からすれば、どんな所で調剤してもらえるのか、知る権利があるという理屈もあろう。そうであるなら、病院の手術室にも窓をあけることを義務付けねばなるまい。
 Offizinを見せるよりも、薬局の薬剤師にとって、もっと本質的なのはカウンタ-での患者との応対である、との認識から、
1. 薬局構造設備基準はクリヤするが、作業している薬剤師の動きは、待合室の患者に、おぼろ気ながら感じとれる程度にする。
2. カウンタ-の構造は十分に検討して、できるだけ患者と薬剤師が話し合えるよう工夫することとした。
ハ. カウンタ-
 わが国で、薬局のカウンタ-というと、どうもイメ-ジがしっくりしない。薬を売る所という『商業的』な感じがある。ところが情報を重視しようとする薬局では、カウンタ-はただ薬を渡す場所ではない。情報を収集する薬局薬剤師の仕事場として、大変に重要な場所といえよう。フラットで長いカウンタ-は近代的な感じはするが、ただそれだけとしか評価されない。患者のプライバシ-を無視した、むしろ過去のカウンタ-であろう。
 情報を重視する調剤を行うことを前提とすると、処方せんを受付ける場所は、あたかも航空会社の発券カウンタ-と同じようにコンピュ-タの端末のお尻が並んだ、機械に支配された感じになってしまう。これでは人間味が消え、機械優先のなじめない感じで、これも面白くない。
 コンピュ-タ端末をカウンタ-に並べることの問題はそれだけではない。薬剤師と患者の距離が離れて、親密な関係を保つ距離を維持できないこと、目の位置(相対的な高さ)の関係が難しくなることがある。
 患者が薬剤師に親近感を持って喋るには、できるだけ相互の距離が近い方がよい。ところが間にコンピュ-タ端末が入ると、どうしてもその距離が離れてしまう。そこで
1. コンピュ-タ端末をわきにずらせて角度をつける。
2. カウンタの構造を2段にしてキ-ボ-ドを隠すと同時に、相互の距離をみじかくする。
ことによって欠点を改善することとした。この素人の試案を黒川氏が建築家の眼でつくり直してくれたのが新薬局のカウンタ-である。(口絵写真)
 特徴として、
1.  薬剤師と患者の適切な距離と眼の高さを保つ
2.  患者に適当なプライバシ-空間を感じさせる
3.  患者にコンピュ-タ端末を機械として意識させない
ことを実現している。この結果カウンタ-の裏側はコンピュ-タ機械で埋っているが、それらの機械は殆ど患者の目に触れずに済み、ものものしさを感じさせないこととなった。
▽ 薬局の雰囲気
 患者が薬剤師に信頼と親しみをもって調剤を頼み、薬剤師の質問に答える状態を創り出すのは、薬局の醸し出す雰囲気による所が大きい。
 20年前までの、薬の売場と調剤室が同居したわれわれの薬局には、『この処方せんできますか?』とか『薬はありますか』という患者からの質問があって、自尊心を傷つけられたものであった。それが、新しい調剤薬局に移ったとたんに、この種の質問が極端に減ったという経験をした。これは雰囲気、道具立てが大切であることの実例といえるだろう。
 環境に影響され易い動物である人間は日用品、食料はそれなりの雰囲気のある店で買うであろうし、装身具や宝石を買う雰囲気は、またそれなりのものに違いない。薬局で患者が薬剤師に話をするにも適切な雰囲気がある筈だと考えた。
 昔から薬局の雰囲気は庶民性が強いというのか、親しみ易いものがあった。それに加えて、医科大学の付近にあるということから格調の高さも求められるだろうし、調剤する薬局として、『コマ-シャリズム』を強調した、崩した形もとりたくない。
 薬剤師として患者から是非とも聞きだしたい内容は、『実は昔のことだが薬で発疹がでた』とか『本当のことを云えば、他の病院の薬ものんでいる。』『先生の指示通りにのむと頭がくらくらするから、半分に減らしてのんでいる。』といった、患者が医師にもいわない、なるべくならば喋りたくないし、隠しておきたい事柄なのである。こうした事柄は、治療上たいへんに重要なことはいうまでもない。薬剤師は直ちに医師に連絡して、患者の安全を守るとともに、治療に協力せねばならない。そしてこうしたことは薬剤師の努力によっては、案外と容易に聞き出すことのできる事柄なのである。
 薬局のカウンタ-での限られた時間の対話で、できる限りの情報交換をするにふさわしい薬局の雰囲気をつくる、過去の形にとらわれずに実現しようと、挑戦することになった。
イ. 待合室
 長椅子が並んでいるだけの待合室は患者置き場のように見え、患者にとっても好ましい環境とはいえない。
喫煙者の隔離も問題であろう。椅子は黒川氏の設計を手直しして貰った。ご老人の患者さんが沈み込まぬよう椅子を硬くすると同時に、5センチ程高くしてもらった。外被の材質も布地としたかったが清掃、或いは消毒の都合を考えて、ビニ-ルレザ-ばりに変えてある。
ロ. 老人と安全
 わが国の急速な老年人口の増加は当分の間続くと予測されている。このため、今後の薬局は老人に対する配慮のある設計が求められよう。
 新薬局が留意したのは、
a ステップ(段差)をつくらない。
 新薬局は坂に面しているため、歩道より進入に段差がつけられていた。家主さん、管理会社に事情を話して手直しした。薬局内も患者さんの歩行範囲には段差がないよう工夫してある。
b 便所
 歩行のやや不自由な方が多くなることを予想して、便所には手スリを設けた。車イスの患者までは配慮できなかった(陶器会社の設計では車椅子の患者が使えるとされているが実証していない)。
c 表示
 なるべく大きな文字を使うこととしている。また、27inchの大型テレビを2台用意して、調剤薬の使用法の説明や、患者呼出しに使っている。
ハ. カラ-コンディショニング
 白亜の殿堂という言葉の『白色』は偉大さ、権威、などを象徴しているようだ。さらに清潔さをも意味することもあって、病院など医療機関の施設では『白色』が使われることが多い。白衣を着ていれば病院のスタッフとして無条件に認められる習慣がある。
 薬局でも、薬剤師は白衣を着る習慣がある。毎朝、白衣を着ることによって、『さあこれから仕事だ』と自らの気を引き締める効果もある。
 この『白色』が患者の心理に大きな影響を与えていることから、薬局では別の色を使ってみようという試みがある。何年か前に各国の薬剤師が集まっての雑談の折に、薬局の施設と薬剤師の服装から『白色』を無くしたらどうだろう、患者の信頼感と、清潔感を損わなければ、患者は心理的に病院と違った印象を持ち、医師の聞き出せなかった事柄が手に入るのではなかろうか、といった話が出たことがある。
 その後カリフォルニアに旅行した時に(1983)、白衣を着ないで調剤している薬剤師をみた。ネクタイやシャツに工夫したあとが見られたので、無精して白衣を着ないのではないことは勿論であろう。患者に親しみやすい感じを与えていた。
 そんなことで、新しい薬局では努めて白色を使っていないし、白衣もかなり形をくずしたうえ、淡いベ-ジュ色としている。結果は数年を経ねば明らかにはならぬだろうが、一つの試みである。
 
5)
 新薬局の工事は昭和59年12月より始められた。翌年2月には、ほぼ完成し、東京都北部衛生事務所へ薬局開設の申請を提出して、許可を得た。
 さらに、4月には新入局員を迎えて、研修を開始した。
 今後、実務を通じて、よい薬物治療の実践に努力を重ねてゆく決心であるので、ぜひ大方のご批評を仰ぎたいものである。

*1)文京区弥生1-5-8-100
*2)調剤薬局の構想 薬局 第16巻 第4号1965
*3)加州紀行印象記 開局薬学研究会誌第1巻 第 1号
*4)日本薬剤師会第1回学術大会
*5)薬剤師とコンピュ-タ、医薬ジャ-ナル

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