株式会社 薬事日報社
2003(平成15)年2月10日
医薬分業の歩みを振り返る
薬の適正な供給が薬剤師本来の役割
水野睦郎氏(東京湯島・水野薬局)に聞く
“調剤薬局”開設の草分けであり、後に東京薬科大学の理事長を務めるなど薬剤師の教育面にも携わってきた水野睦郎氏は語る――
「僕は、開局薬剤師だから、開局者の狭い面から話を進めます。この戦後50数年、開局薬剤師の仕事は大変変わりました。処方せん枚数は、どんどん増えています。だから分業になったと考えるのは、ちょっと違うと思うのです。処方せん枚数だけで分業が進んだとはいえないでしょう。
業を分けるということは、業を受け持つ人々に包括的な責任を持たすことでしょう。薬剤師の場合、それは薬の供給の責任です。薬の供給の独占権にもつながります。したがって、薬剤師は自分たちの収入を考えると同時に、国家的な視野に立って、技術や薬剤費を考える必要があるんじゃないかな。開局薬剤師のことばかりを考えて主張するのは、 分業とは違うものでしょう。
そうでなければ薬剤師は飽きられてしまい、国民は他の方法に魅力を感じるんじゃないかな。医薬分業の先進国は、その点に大変気を遣っているようです。つまりわが国の医薬分業はできあがったのではなく、やっと登山道を見つけたという状態だと思っています。
これだけ処方せんが使われるようになると誰かの思いつきで、あっという間に変わってしまうこともあるでしょう。薬剤師として、方向性をリードするのが非常に難しくなる。薬剤師全体のこととして取り上げる。これが21世紀の薬剤師の基本問題でしょう」
昭和20年に終戦を迎え、アメリカ占領下の日本では早々にGHQによる日本の医療の検分のなかで医薬分業がなされていないことが指摘され、後にアメリカ薬剤師協会使節団によって、医薬分業を実施すべきとの勧告がされた。その後、サンフランシスコ平和条約が発効する27年までの間に、いわゆる「医薬分業法」が成立。これを一つの契機に、まさに医薬分業をめぐる環境は激動の時代に入った。
様々な攻防の末、社会環境の変化を受け、平成に入ってからは劇的に処方せん発行が進展。12年には調剤医療費は歯科医療を超え、その動向は医療経済にも大きな影響力を持つようになっている。14年に入って処方せんの受取率(いわゆる分業率)は全国平均で50%に迫る勢いであり、処方せんの発行枚数も、13年度時点で既に5億枚を超えた。また、平成14年の診療報酬改正では“たった1点の引き下げ”により調剤報酬総額の大幅引き下げが可能になったほどだ。
このように数字だけみれば、まさに定着、さらに進展しつづけているとも言えるが、水野氏は「基本的には同じことかもしれないけど、医薬分業と処方せん発行というものは違うもの」と語る。何かと数、量に惑わされがちな現在。また、初めから“分業”が当たり前の世代にとっては、「“処方せん発行イコール分業”ではない」とは、これ如何にということになるかもしれない
“医薬分業”がいまだ不安定な状態にあると危惧する水野氏に、その独特の感性と視点で戦後の医薬分業について、振り返っていただくとともに、20世紀から21世紀に引き継がれた課題や展望をうかがった。
「処方箋に拠り薬を調合」―薬律の規定―
わが国における医薬分業の歴史的展開は、明治7年、政府が「医制」を公布し、後の薬剤師である薬舗主に調剤権を付与したことで、医薬分業が原則的に承認されたことに端を発するとされる。この医制は全76ヵ条からなるが、医薬分業に関しては、まず第41条に「医師たる者は自ら薬をひさぐことを禁ず。医師は処方書を病家に付与し、相当の診察料を受くべし」と規制した。但し書きには二等医師については「願い出れば薬補開業と調剤を許す」とあるが、基本的に医師による調剤は禁止されている。さらに、違反に対する罰則も記されていた。ただ、それ以前に、「政府によるドイツ医学の導入」という目的で招聘されたミュルレル、ホフマンらは医制確立を目指した「医制」起草の際に、わが国で初めて“医薬分業思想”を建白する。
医薬分業が取り上げられる以前の明治3年12月、政府は「売薬取締規則の制定」(明治5年7月廃止)により、売薬の免許制度を設けている。その後改めて、10年に「売薬規則を布告」し、売薬の定義、営業者の免許鑑札等を定めたが、薬剤師がその名称と職能について規定されるのは明治22年のいわゆる「薬律」の制定を待たなければならない。
いわゆる薬律は正式には法律第十号「薬品営業竝薬品取扱規則」といい、第1章「薬剤師」、第2章「薬種商」、第3章「製薬者」、第4章「薬品取扱」、第5章「罰則」と付則を含めた全48条からなり、現在の「薬事法」と「薬剤師法」の原型ともいわれている。
法律によって薬剤師は、製薬をしてもよろしい。薬を売ってもよろしいとされた。「薬剤師ができる前から製薬(人)と薬種商(売薬)は独立した職業だったんだ。そして、政府は製薬と売薬を薬剤師がやってもよろしいとしただけで、薬剤師の権限にはしなかった。そういう背景のなかで薬剤師にとって、調剤だけが大きく取り上げられることになり、その後は医師としょっちゅう喧嘩する羽目になったんだろうね」(水野氏)
実際、薬剤師の本分はというと薬律第1条で「薬剤師とは薬局を開設し医師の処方箋に拠り薬剤を調合する者をいう」と記載されている。
水野氏によれば「ところがヨーロッパでは、薬剤師が他の薬の取扱業者を排除して、薬全般の権利を持つことに努力した。そして法的に国民に薬を提供する独占権を得たし、それを守ることに成功している。今の日本では簡単とは思えないが、それを実現する努力、つまり、国民に安全な薬を安く提供することが、薬剤師によってのみできることを実証することはできるに違いないと思っています」とヨーロッパの薬剤師の権限、役割との根本的な違いを指摘する。ヨーロッパの薬剤師は人に供給する医薬品の取り扱いに関する独占権を根本とするが、わが国ではその違いが「将来的に問題になってくるのではないか」と水野氏は危惧する。
現実問題として、いまの処方せん発行の潮流は止まることは考えにくいとはいえ、院外処方せん発行を促進しているのは、突き詰めると“保険”、いわばお金の問題ともいえる。既に分業率50%時代が目前とも言われながらも、“医薬分業”の基盤が未だ脆弱であることには変わりがないといえよう。
この独占権については「一旦独占権を手に入れた者は、手放したくないと思うが、それを“手放しなさい”という圧力は非常に強い。そうさせないためには、国民に対し、常にこのやり方が一番良いと納得させることが必須で、それが一番大変。その権限を剥奪されないように、流通の効率化など含めて、他の勢力と競争しているのです」と水野氏は語る。
いずれにしても「薬律」では医師の調剤を認める除外規定があること、薬剤師不足などの理由から医薬分業は進むことはなかったわけだが、いわば除外規定の撤廃を焦点の一つとして、医薬分業推進のために日本薬剤師会が創立された。終戦を迎える昭和20年までを一括りにすれば、その間は熾烈な政治闘争がますますその規模を拡大していった年月だったともいえる。
“分業法”めぐり2師が対立
さて、終戦後の昭和21年以降、医薬分業をめぐる環境に新たな動きが生まれることになった。戦後民主化された薬事法も、医薬分業に関しては従前通り。医師の調剤権を容認したことに対して薬剤師会は不満を抱き、アメリカ薬剤師協会の招聘を働きかけた。27年7月には、聨合軍総司令官マッカーサー元師の招聘の形で同協会会長グレン・エル・ジェンキンス博士を団長とする使節団(5人)が来日。約1ヵ月にわたって日本の医薬制度を調査し、報告書をマッカーサー元師に提出した。
この報告がそのまま聨合軍総司令部より、政府への勧告となったが、このなかで医薬分業および薬学教育の改善を求めた。これを受けた政府は国会において審議を進めたが、結論には至らなかった。
その一方、占領軍司令部サムズ准将(連合軍司令部公衆衛生福祉部長クロフォード・エフ・サムズ准将)は、25年1月、三志会(日本医師会、日本歯科医師会、日本薬剤師会で構成)において、「医薬分業に賛成の場合、その実施方法を取りまとめること」を協議することを要望した。しかし、三志会の協議はまとまらず、サムズ准将はその後数回にわたって、日本医師会幹部を招致し、意見交換を行った。その結果厚生省のなかに、医薬分業問題を審議するための調査会(臨時医薬制度調査会、診療報酬調査会)が設置された。26年2月には、医薬分業の具体的な実施方法について答申が行われ、これをもとに厚生省は関係法規の改正案を国会提出した。
アメリカによる占領自体、その評価は分かれるところではあるが、水野氏は「使節団については評価云々というよりも、あんな時に調査、勧告したということはすごいことだったと思う」と評価する。実際、その勧告がなされたことに端を発し、26年の「医師法、歯科医師法および薬事法の一部を改正する法律案(いわゆる医薬分業法案)」が国会を通過することにつながったのだ。
ただ、施行日を30年1月1日とし、さらに省令は審議会の議論を経てとされ、その間に医師会と薬剤師会の攻防は続き、ついに施行の前年29年には年も押し迫った11月25日に医師会は東京神田の共立講堂で全国医師大会を開催、強制医薬分業に絶対反対との決議を採択した後、デモ行進を行った。一方、薬剤師会はその四日後に、同じ講堂で全国薬剤師総決起大会を開き、医薬分業の完全実施を決議。厚生省へのデモ行進を行い、両者の対立は決定的なものとなった。
その後も両者の政治闘争は続き、ついに医師会は分業の実施を1年3ヵ月延長させる、修正案を議員立法で成立させ、さらに医師の処方せん交付を免れる但し書き規定を法文中に列挙。最終的な施行直前に至って、再修正による“骨抜き法案”となった。
昭和30年代に入ると、次第に製薬業界も立ち直り、小売流通も盛んになってきたことから、薬事法の全面改正が行われた。これにより従来の薬事法から薬剤師の身分や業務規定を薬剤師法で規定する戦前の形に改め、薬事法と薬剤師法の2法に分離した。
水野氏は「薬事法はヨーロッパから来たものであり、初めから薬剤師を規定する法律のなかに製薬や売薬などの規定を入れたのではないかと思う。分けられているのは21世紀の大きな問題点」だと指摘する。つまり、遡ること明治22年の薬律で示された「薬剤師とは薬局を開設し医師の処方箋に拠り薬剤を調合する者」という主文は違えることなく、21世紀の現在にまで受け継がれているのだ。
処方せん料改定が引き金責任分担へ新たな戦いが
処方せん発行が遅々と進まなかった、その頃、一方では小売面でも乱売がその極みに達していた。薬剤師会は、新規の乱売薬局・薬店を締め出すために、薬局等の開設の距離制限の法案を高野一夫参議院議員(第17代日薬会長:昭和30〜40年)により議員立法で提出、38年に成立をみた。しかし、50年には、これにともなう薬局等適正配置条例を最高裁が違憲と判断。薬事法の一部改正を受けて、その後は自由に薬局等を開設することが認められる。
この昭和30年代も相変わらず医師会と薬剤師会との論争は華々しかったそうだが、39年になって武見太郎日医会長が、理事会の席で医薬分業実施を提唱。水野氏は「薬剤師会さんとの喧嘩はそろそろやめようと言い出したが、むしろ薬剤師会の方がその言葉を信じていなかった。そのために10年間近くを無駄にしたのではないか」と回想する。結局“武見発言”から10年目の49年に診療報酬改定で処方せん料を大幅に引き上げ、処方せん発行誘導を開始することになったのだ。このとき同時に薬局側のフィーも考慮された。
さて、このような医薬分業論争が続くなかで、現在では「使い方の問題」と言われることもあるが、“医薬品の承認”をめぐって大きな社会問題が起こった時期だった。37年のサリドマイド出荷停止、その後のキノホルムによるスモン、抗マラリア薬・クロロキンによる網膜症など薬害が相次ぎ発生し、その対応に追われた。副作用被害への対応は54年の医薬品副作用被害救済基金法の成立を待たねばならなかったが、42年には厚生省は「医薬品の製造承認等に関する基本方針」を実施する。
昭和50年代以降というのは、「49年の点数が変わったことに後押しされて、かつての米価審議会みたいに、中医協の場が“1点でも多く”という闘争の場になっていった」と指摘する。「ヨーロッパの薬剤師は薬の供給についての独占権を守るため、薬の値段を安くしようと努めている。薬剤師が自分の収入を増やそうというのはいいが、同時に国家的視点に立って薬剤費を考えるべき。きっとその両方が働いて、職業人として成り立つのじゃないかな」と語る。
現在の調剤報酬体系については、「いわば規模別に基本料が決まっているけど、そのうち消費者は利口になって、皆大きな薬局に集中するのじゃないかな」と指摘する。この数年、基本料の4段階については、代議員会等で批判が寄せられているところだが、水野氏は「経済的に区別するというよりも、むしろ大薬局にはもっと別の役割、例えば技術的な支援などしなければならないことは沢山あると思う」と語る。
この技術的な支援とは、いわゆる技術研修の役割であり、そのほかに在庫の拡充と開局時間の延長という3つの視点で、大薬局に役割を担ってもらうべきだと語る。特に技術研修、あるいは新たな技術の開発という面では、これまでのように病院薬剤部が必ずしも頼れない――と指摘する。
既に病院薬剤部は独自の道を歩み出しているからにほかならない。かつて病院薬局が自らの手で技術、情報を生み出してきたのと同様に開局薬剤師も「自分たちのなかで良い技術、情報を創り出していく必要がある。これが開局薬剤師の21世紀における基本問題だと思う」と語る。
その上で水野氏は「20世紀後半でスタート台に立った、わが国の薬剤師が医師や看護師らの中で地道に責任を引き受け、能動的に活動する。それが21世紀の薬剤師像になると感じています。今までは誰かの支援で進んできましたが、これからが本当の医薬分業。その戦いが始まったのだと感じています」と語る。