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株式会社 薬事日報社
1994年11月
P52〜P57
ファーマシューティカルケア

3.ファーマシューティカルケアの方向性

城山三郎氏の「価格破壊」(昭和44年週刊読売連載)が話題を集めてから四半世紀、世の中はすっかり変わってしまった。大百貨店ですら方向転換を強いれられ、町にはディスカウンターがあふれている。四半世紀前は定価に対しての価格崩壊であったのが、それにもまして、この頃は、国際レベルでのコストパフォーマンスの追求が求められている。国民の教育レベルの向上、海外旅行の一般化、またマスメディアの発達とともに、私たち消費者がどんどん賢くなってきたからであろうか。

国外では、社会主義の崩壊、ECの統合など、25年前には想像すらつかなかった動きがみられ、日本の「バブル」も崩壊し、国民の生活感覚、習慣も激変した。変化に富んだこの頃であるが、当然ファーマシューティカルケアもこれらの社会変化に従い発生してきた考え方であるし、その方向性を捉えていくには背景にある日本、また国際社会の消費者中心社会に向けての動きを理解する必要があるのではないだろうか。価格破壊が現実になった今、ファーマシューティカルケアを薬局、薬剤師の生き残り策として考えていかねばならない時代が来てしまったようである。この頃では、この変わりつつある現代社会に観点を置き、ファーマシューティカルケアの方向性を考えていく。

背景 戦後、日本は優秀な行政官のもとに計画経済を推し進め、世界有数の経済大国になったことは周知の事実である。経済発展が国民の栄養状態、また公衆衛生の向上を可能にし、日本は世界有数の長寿国になった。もちろんGNPも世界に誇れる物であるし、文化的にも捨てた物ではない。1980年代にはアメリカの1920年代をも思わせる「バブル」状態が起こり、盛り場は満員で、茸のようにビルが立ち、町にはベンツがあふれた。海外旅行も一般化し、修学旅行や社員旅行で海外へ出かける時代になった。「Japan as Number One」などという本がはやり、マスメディアは戦後日本の発展を讃えた。

しかし、その「バブル」の崩壊とともに訪れた平成不況は、日本社会の非効率性を世に知らしめてしまった。日本の物価が(サービス対価も)世界的水準と比べても非常に高く、せっかくの高GNPも私たちの生活にあまり反映しない。私たち国民が無頓着であったからか、「談合体質」また「官民癒着」による公費の無駄使い、また過剰な規制から自由競争の欠如などが社会的な効率を下げ、不況を長引かせているようである。通信を例にとっても、規制緩和の進んでいるアメリカやイギリスと比べて日本の電話、デジタル専用線などの価格は数倍する。またその高い価格が多々の新サービス(インターネット等)の普及を妨げている。アメリカから日本に電話するほうが東京から北海道にかけるより安くすむなどの異常事態も起きている。

社会の変化 この不況のなか、前述した非効率を反映してか、日本社会に確実な変化が起きている。「規制緩和」や「自己責任原則」など聞き慣れない言葉が新聞をにぎわしている。医療現場では「インフォームドコンセント」や「病名告知」が話題になり、書店では「医者からもらった薬のわかる本」等の本がヒットしている。これらの動きは、日本の社会が製造者、供給者中心の社会から、消費者が中心である社会に変わりつつあることを示唆しているのではないだろうか?

この社会改革のなかでも、焦点は「規制緩和」である。「自己責任原則」を鑑み、政府も一段と規制を緩和していく方向性を示しているようだ。その裏にアメリカなどからの貿易摩擦解消に向けての規制緩和要求も強いようである。規制緩和を考え、「自己責任原則」を理解しようとするとき、このアメリカの例は、非常にわかりやすい。アメリカも70年代に大幅な規制緩和策をとり、通信、運輸、その他の市場に、市場競争原理を導入し、その結果、関係業界の飛躍的な能率向上をもたらしたからだ。

「自由の国」とよく呼ばれるアメリカ、また「規制大国」の日本。どう考えればよいのだろう?

自由と規制、とちらが先? 自由と規制を考えるときに二つの哲学が存在する。自由が先で規制があと、というアメリカ型、また規制が先で自由があとの日本型である。アメリカではまず憲法で保証された自由があり、その自由を最小限に束縛する規制が存在する。日本ではまず規制ありきで、その規制のなかでの自由があるようだ。たとえば、薬に対する考え方も、原則的に消費者には自分の体に対して薬を投与する自由があるが、社会的影響を考え、危険な薬は規制するというのがアメリカ型で、日本の考え方とは原点が異なる。

この「自由と規制」を考えるときに農場の家畜とそれを囲う柵をイメージしていただきたい。家畜を飼うときに、家畜を放牧してから必要に応じて柵を作るのがアメリカ型である。動物が逃げ出した実績のある最小限のところに柵を作るのである。その反面、家畜の行動は予測できないと考え、柵で完全に牧場を囲ってから家畜を柵のなかに放すのが、従来の日本における官僚制度下の規制に対する考え方である。しかし、われわれ消費者は家畜ではない・・。

これが規制緩和のキーポイント、「自己責任原則」である。つまり消費者の人権を考え、消費者の教育、判断、倫理を信頼し、自由を尊重する。そのうえで必要最小限を規制するのである。いい換えれば、従来の日本の消費者は家畜なみに扱われたのかもしれない。規制を原則とすることは消費者の人権を無視し、消費者の教育、判断、倫理を否定することである(もちろん、これは発展途上の国(終戦後の日本も含む)においては必要悪なのだろう)。

日本の官僚は「カウボーイ」として戦後日本の国を司り、国民を繁栄に導いてきた。しかし、教育水準が向上し、マスメディアを通じて豊富な情報を手にした私たち消費者には、牧場の囲いは狭くなってしまったようだ。規制緩和の声の下、優秀な官僚は「カウボーイ」を脱皮し、日本社会の「ホテル支配人」的存在に変身しつつある。顧客(国民、消費者)のニーズを理解し、快適な滞在(生活)ために根回しを行い、客全員の快適な滞在のために最低限のルールを作り、酔っぱらいのお客などに対応するのである。

規制緩和と薬局、薬剤師業務 薬剤師もホテルの支配人を見習う必要があるかもしれない。「カウボーイ」として家畜(患者)を管理する時代は終わりつつある。患者のニーズ(QOL)を認識し、その達成に向けて努力しなければならない。これがまさにファーマシューティカルケアの方向性なのである。

いい換えれば、家畜のために柵を作るようなプロセス中心、「やってやる」の考え方でなく、患者(消費者)のQOLを向上するために確実な結果(快適な滞在)にむけて努力することである。ホテル支配人が顧客を敬い、顧客の教育、判断、倫理を尊重するように、薬剤師も同じように患者を主人として扱うべきなのであろう。この点は薬剤師が他のプロフェッションと比べ、従来、得意としてきた分野でもある。小売りのせ性質を兼ね備えることで顧客を中心に考えることに慣れており、顧客に親しみやすい存在であったのだ(表1参照)。

ホテル顧客の「快適な滞在」に絶対論がないように、患者のQOLはお仕着せではあり得ない。患者のQOLは十分な説明、情報をもとに患者が判断するもので、決してサービスの提供者(医師、薬剤師)が独断でき得るものだけではない。つまり、顧客にウエルカムドリンクや寝室内の花を用意することはできても、無理矢理カナヅチの顧客をプールに案内しても喜ばれまい。同じように医師、薬剤師も薬歴管理や相互作用チェックはしても、ハロペリドールを口うるさい患者に説明なしで投与したら問題である(これがまさにインフォームドコンセント、インフォームドチョイスである)。

ファーマシューティカルケアの方向性には絶対性がない。つまり「虎の巻」はあり得ない。ある顧客は「静かなホテル」を要求し、ほかの顧客は「きらびやかなホテル」を好む。「経済性」で選ぶ客もいるかもしれない。万能な単一ホテルサービスがないように、万人にあったお仕着せのファーマシューティカルケアはあり得ない。あくまでファーマシューティカルケアの方向性は患者個人のQOL、また自己責任原則に基づくものだからである。この一般性がないのが、「ファーマシューティカルケアの方向性」なのである。

つまり、ファーマシューティカルケアの価値は、患者が決めるのである。今までのプロフェッションは資格という規制に守られて業務独占を許されてきたが、規制緩和時代の今、そのプロフェッションの存在価値は、規制の下での絶対価値から消費者が判断する相対価格に移りつつあるようだ。

選んでもらう薬局、薬剤師 かかりつけ薬局も結構だが、内容が伴うから「かかりつけ」になるわけで、余程の過疎地でないかぎり、「病院に近いから」とか「家に近いから」ではない。

ファーマシューティカルケアのもとで薬局、薬剤師は患者に選ばれていかねばならない。規制下の独占状態ではプロフェッションの倫理観がサービスの内容を決めていたが、この「自己責任原則」の世の中では、消費者は物差しを持っている。その物差しは基本的にコスト・パフォーマンス(cost performance)であろう。パフォーマンス(性能、結果)をコスト(価格)で割った「価値」である。消費者にとって価格は、低ければ低いほどよい。しかし、賢い消費者はパフォーマンスも考慮に入れ、賢い選択をしていくに違いない。ここでいうコストは値段だけでないし、パフォーマンスには多くのファクターがふくまれる。いろいろな可能性から消費者は自分でサービス提供者を選んでいくのである。セルフサービスの薬局を選ぶ患者もいれば、フルサービスの薬局を選ぶ人もいるだろう。もちろん、現実にはもっと複雑な過程で薬局が選ばれるであろう。しかし、患者が厳しいコスト感覚、独自のバランス感覚を持って薬局を選ぶ時代はすでにきているかもしれない。

選んでもらえる薬局になるには、コストを下げ、パフォーマンスを上げればよいのである。しかし規制緩和後、薬局、薬剤師はこれまで以上の競争を強いられる。のんびりしていると、「業務独占」という「規制」の非効率さを社会に追求されてしまうのだ。規制のない世の中では、薬局、薬剤師だけにしかできない仕事が業務の中核でなければ、他業種からの新規参入は防げないし、社会的な薬局、薬剤師の社会的存在理由もなくなってしまう。

自分も消費者 ある業界団体のアメリカ視察をコーディネーターとしてお世話したとき、スーパーマーケットで中年の薬剤師の方に、「アメリカの物価は安いでしょう?」と聞いたら、「わからない」と返事が返ってきた。同じように、「消費者」とか「患者」といったとき、「自分ではない」、という感覚を持つ方が多いようだ。「患者の観点」で仕事をするには、患者になって見るのが一番である。同じように、「消費者の立場」で仕事をするには、自分で「消費(買い物)」し、自分も消費者であるという自覚を持っていくことが必要なのかもしれない。

薬局、薬剤師にしかできない仕事 ファーマシューティカルケア、イコール薬剤師の仕事ではない。ファーマシューティカルケアの概念には「誰が」という「規制」はない。しかし、社会がファーマシューティカルケアを必要としているのは事実であるし、薬剤師はその提供者としての素質をもっている。その素質は、薬剤師が中立であり、科学的、また臨床的な評価、判断ができるということである。

中立的、科学的、また臨床的 「自己責任原則」の世の中で、消費者を製薬会社の営利主義から守れる数少ない職業人は薬剤師である。営利情報ではない第三者の中立な薬物治療情報を入手して、中立な立場で親身になって薬物治療を提供できるのは、薬剤師のみである。もちろん、処方者である医師から独立して中立であることも医薬分業の大原則である。

薬学教育を受けた薬剤師は科学者である。感情的、情緒的または営利目的の「まやかし」の情報と、科学方法論に則った信頼できる臨床情報の区別がつくはずだ。頼れる情報が存在しないときにも、科学的知識、経験を生かして問題を評価、判断していく能力が備わっている。たとえば、営利目的の「まやかし」の情報から消費者を守り、将来、第二のソリブジンが出てきたときに添付文書の不備を指摘できる可能性を含んでいる。

営利情報に頼らず、自分自身で臨床的、科学的な薬物治療情報を蓄え、患者のQOL向上のための責任ある薬物治療を提供していく。そんな薬剤師なら「業務独占」などという規制ははじめから必要ない。消費者は馬鹿ではない。その証拠が最近の「規制緩和」である。賢い消費者はおのずとコストに見合ったよい薬局薬剤師を選んでいくであろう。

消費者を見方に 生き残りをかけ、規制緩和反対を叫ぶことも一つの方法である。同時に、消費者を味方につけるためには、「薬局、薬剤師だけにしかできない仕事」または「薬局、薬剤師だからこそ効率よくできる仕事」を追求していくのも必要ではないのだろうか?

消費者の味方として消費者のQOLを理解し、社会がどんなファーマシューティカルケアを必要としているかを考え、いかに薬局、薬剤師がその業務を誰よりも効率よくこなしていくか、それが薬局、薬剤師の将来を握っているように思える。

最後に ファーマシューティカルケアの社会背景には「規制緩和」があり、「自己責任原則」がある。逆に、避けられない「規制緩和」があるからこそ、ファーマシューティカルケアの考え方が生まれてきたのかもしれない。この消費者中心の社会で、ファーマシューティカルケアの方向性は消費者が決めるのではないだろうか。そして、その方向性を我々が理解する過程は、消費者を信じることから始まる。

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